「空中に起こる一切の奇怪な現象」を読んだ ― 2009/03/21 23:16
http://wwwsoc.nii.ac.jp/sjllf/links/ken-ronsard.html
岩波の『ノストラダムス 予言集』の「結び 16世紀詩人ノストラダムス」を読むと、ピエール・ド・ロンサールらプレイヤード派の詩風に準じる活動をノストラダムスが行っていたとある。さらにはルネサンス期フランス詩の王道を歩んでいるとまで持ち上げてくれている。テクストのなかにはそういう一面も感じないわけではないが、センセーショナルな註釈を否定する代わりに随分と過分な評価を頂いたと感じる。岩波の本はブランダムールの原書に基づきながらも大幅に省略あるいは加筆されており、訳書というより書き下ろしと見てもいい位である。高田勇氏と伊藤進氏の編訳とあるが、その仕事の配分、どちらがどの部分を担当したのか本文だけではうかがい知れない。
岩波の巻末にある研究書目の日本語文献、伊藤氏の論文「空中に起こる一切の奇怪な現象」の載っている『ロンサール研究』 X(特別号)を借りてみた。すると、どこかで読んだことのある話が続き、最後の5頁ではロンサールからノストラダムスにシフトして論じられている。定番のロンサールの詩「ギヨーム・デ・ゾテルへのエレジー」を取り上げているが改めて岩波と比べると、抜粋箇所がずれていたり、訳文が相当細かく修正されている。じっくり読み比べてみると、微妙に論調も変わっている。論文では「ロンサールはノストラダムスの権威に慎重な態度をとりつづけたという説もあるけれど、ここはむしろ打ち重なる異象の連続に詩人はついに予言者の能力に同意せざるをえなくなっていると読むべきではなかったか」と好意的である。(簡単な話が随分まわりくどい)
岩波の該当箇所では、「しかし、ロンサールといえどノストラダムスを常に賞賛していたわけではない。・・・そして彼に対し慎重な態度を示すこともあるのだが、世のノストラダムス註釈家はこれに触れたがらない。・・・ロンサールが、詩人としてのノストラダムスを念頭に置いていないことは明らかである。」と、少し距離をおいた慎重な見方に変わっている。なにせ、論文での結論が「かくして、ロンサールがノストラダムスに見ているもの、それはもはや怪しげな占者などではけっしてなく、自然全体と協働する、世界の秩序とつながりのある予言者なのである。」とノストラダムス・ファンにとっては身に余る程の賛辞である。論文の日付は1996年11月なので、伊藤氏自身の考え方が少し変わったのか、それとも高田氏との温度差によるものか、そこはよく判らないけれど。
岩波の『ノストラダムス 予言集』の「結び 16世紀詩人ノストラダムス」を読むと、ピエール・ド・ロンサールらプレイヤード派の詩風に準じる活動をノストラダムスが行っていたとある。さらにはルネサンス期フランス詩の王道を歩んでいるとまで持ち上げてくれている。テクストのなかにはそういう一面も感じないわけではないが、センセーショナルな註釈を否定する代わりに随分と過分な評価を頂いたと感じる。岩波の本はブランダムールの原書に基づきながらも大幅に省略あるいは加筆されており、訳書というより書き下ろしと見てもいい位である。高田勇氏と伊藤進氏の編訳とあるが、その仕事の配分、どちらがどの部分を担当したのか本文だけではうかがい知れない。
岩波の巻末にある研究書目の日本語文献、伊藤氏の論文「空中に起こる一切の奇怪な現象」の載っている『ロンサール研究』 X(特別号)を借りてみた。すると、どこかで読んだことのある話が続き、最後の5頁ではロンサールからノストラダムスにシフトして論じられている。定番のロンサールの詩「ギヨーム・デ・ゾテルへのエレジー」を取り上げているが改めて岩波と比べると、抜粋箇所がずれていたり、訳文が相当細かく修正されている。じっくり読み比べてみると、微妙に論調も変わっている。論文では「ロンサールはノストラダムスの権威に慎重な態度をとりつづけたという説もあるけれど、ここはむしろ打ち重なる異象の連続に詩人はついに予言者の能力に同意せざるをえなくなっていると読むべきではなかったか」と好意的である。(簡単な話が随分まわりくどい)
岩波の該当箇所では、「しかし、ロンサールといえどノストラダムスを常に賞賛していたわけではない。・・・そして彼に対し慎重な態度を示すこともあるのだが、世のノストラダムス註釈家はこれに触れたがらない。・・・ロンサールが、詩人としてのノストラダムスを念頭に置いていないことは明らかである。」と、少し距離をおいた慎重な見方に変わっている。なにせ、論文での結論が「かくして、ロンサールがノストラダムスに見ているもの、それはもはや怪しげな占者などではけっしてなく、自然全体と協働する、世界の秩序とつながりのある予言者なのである。」とノストラダムス・ファンにとっては身に余る程の賛辞である。論文の日付は1996年11月なので、伊藤氏自身の考え方が少し変わったのか、それとも高田氏との温度差によるものか、そこはよく判らないけれど。
コメント
_ 研究者 ― 2009/03/22 14:56
_ 新戦法 ― 2009/03/22 21:50
研究者さん、こんにちは。だんだん春が近づいていますね。
> 新戦法さんの中ではノストラダムスの予言とはどのような位置付けなのでしょうか?
その質問は一言では答えづらいです。(笑)自分自身でのノストラダムスの評価は、万人受けする予言テクストを生み出す才能に長けた人物という感じでしょうか。その予言をどう見るかといえば、今はいろんな側面があるとしかいいようがありません。例えば、16世紀当時に流行った雑多的な知識を援用しアレンジしたか、あるいは何らかの秘教的な哲学を土台とするオリジナリティのあるものとか、さらにはいろんな文献をパクった上でもったいぶった表現をかぶせただけの山師とか。
少なくとも、ルネサンス期フランス詩の王道というのは等身大の評価として当てはまらないかなとは思います。(^^;
研究者さんはどうお考えですか。もしよかったらお聞かせください。
> 新戦法さんの中ではノストラダムスの予言とはどのような位置付けなのでしょうか?
その質問は一言では答えづらいです。(笑)自分自身でのノストラダムスの評価は、万人受けする予言テクストを生み出す才能に長けた人物という感じでしょうか。その予言をどう見るかといえば、今はいろんな側面があるとしかいいようがありません。例えば、16世紀当時に流行った雑多的な知識を援用しアレンジしたか、あるいは何らかの秘教的な哲学を土台とするオリジナリティのあるものとか、さらにはいろんな文献をパクった上でもったいぶった表現をかぶせただけの山師とか。
少なくとも、ルネサンス期フランス詩の王道というのは等身大の評価として当てはまらないかなとは思います。(^^;
研究者さんはどうお考えですか。もしよかったらお聞かせください。
_ 研究者 ― 2009/03/23 12:51
そうですね。私も新戦法さんに近くて、ノストラダムスは「合わせ鏡」をつくる天才だったのだと思います。皆が自分の願望をノストラダムスの予言に投影してしまうというマジックというか、それはすごいものだと思います。
ノストラダムスの予言は抽象性が高く、本当に色々な解釈者が出てきてノストラダムス現象ができてしまうくらい魅力的なもので人を惹きつけるものだったと思います。(^^;
ノストラダムスの予言は抽象性が高く、本当に色々な解釈者が出てきてノストラダムス現象ができてしまうくらい魅力的なもので人を惹きつけるものだったと思います。(^^;
_ 新戦法 ― 2009/03/24 22:43
研究者さん、コメントありがとうございます。
> ノストラダムスの予言は抽象性が高く
抽象性が高いという見方は、ひょっとすると一面的かもしれませんね。叙事的と受け取れる詩も数多く含まれていると思いますがいかがでしょうか。予言が魅力的なものというのは賛同できます。
> ノストラダムスの予言は抽象性が高く
抽象性が高いという見方は、ひょっとすると一面的かもしれませんね。叙事的と受け取れる詩も数多く含まれていると思いますがいかがでしょうか。予言が魅力的なものというのは賛同できます。
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>ルネサンス期フランス詩の王道を歩んでいるとまで持ち上げてくれている。テクストのなかにはそういう一面も感じないわけではないが、センセーショナルな註釈を否定する代わりに随分と過分な評価を頂いたと感じる。
新戦法さんの中ではノストラダムスの予言とはどのような位置付けなのでしょうか?過分な評価ですかね?