数の神秘2009/03/17 23:44

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4875975120.html
三省堂のブックフェアで入手した本が手元にある。フランツ・カール・エンドレス著 アンネマリー・シンメル編 畔上司訳 数の神秘 現代出版 1986年 である。今から23年も前の本だがなかなか面白い。物の数え方と数字は、太古の世界で我々の祖先が手の指の数である5ないしは10から発展した。あるいは足の指も計算に入れて20進法という方法もある。現代フランス語では80をキャトルバン(4×20)というが、その名残というのも説得力がある。数のなかに隠された意味を持つという数秘論では、どの数にも特有の本質・魔力・形而上学的意味があると考えた。こうしたピタゴラス学派の見方は中世の神秘主義に継承され、ユダヤ教の伝統ではカバラということになる。この本の第二章、第三章の「数の小辞典」では、1から順に数の持つ象徴を解説してくれる。

五島勉氏の『ノストラダムスの大予言』シリーズの初期の頃には、滅亡の恐怖を演出しようと四行詩のナンバーに様々な形容句を追加することで暗澹たるイメージを誘導している。第10巻の49篇、欧米でも、なんとなく不吉な数字として忌みきらわれている・・・(初巻171頁)、第9巻の44篇、欧米でもひどく忌みきらわれ・・・(同173-4頁)、第2巻13篇、13は割り切れない数だから、大凶の継続という意味を持つ・・・(同184頁)、破滅・終末という意味を「七」であらわした(Ⅱ226頁)、「一七」が破滅の数七を強調する数・・・(同227頁)こういった数の象徴は実際客観的なものだったのか。その疑問に本書『数の神秘』は明快に答えてくれる。たとえば「七」ではいろいろなエピソードを取り上げているが、古来神秘数・魔数として用いられた知恵の数で破滅などの話は出てこない。

「十三」は俗に凶数とされ忌みきらわれるというのは有名だが、この迷信自体は17世紀以後のものらしい。ノストラダムスの思考形態になかったと思われる。「十七」は聖書のノアの洪水に関連があるが「克服の数」であり破滅の強調などは意味しない。1999年の詩のナンバー72の項を見ると、中世のカバリストたちがエホヴァの名前が72文字からなるとか、神に72の名前があることをつかんでいた等とある。ヨーロッパのみならず世界中で重視されていた数字らしいので、ノストラダムスがそのイメージでナンバーを充てた可能性も捨て切れないだろう。

コメント

_ 研究者 ― 2009/04/11 09:14

こんにちは、新戦法さん。天気の良い日が続きますね。(^^;

>数のなかに隠された意味を持つという数秘論では、どの数にも特有の本質・魔力・形而上学的意味があると考えた。こうしたピタゴラス学派の見方は中世の神秘主義に継承され、ユダヤ教の伝統ではカバラということになる。

『幻想の東洋』の下巻p110「天使教皇の夢」を読んで思ったのですが、数秘術的要素がカバラの神秘主義的言語論の「世界の本質は言語である」ということにもつながる部分はあるような指摘がありますよね。

「イェーツィーラーの書」によれば、世界はセフィーロートと呼ばれる十の原数とヘブライ語の二十二のアルファベットを元素とし、それらを組み合わせて創造されたものだという。

このようなユダヤ神秘主義もノストラダムスに影響を与えていたのでしょうか?

_ 新戦法 ― 2009/04/12 14:41

研究者さん、

> このようなユダヤ神秘主義もノストラダムスに影響を与えていたのでしょうか?

どうなんでしょう?自分ではノストラダムスとユダヤ神秘主義との関わりについては少し懐疑的なのですが、ポステルのようなキリスト教カバラについて論じたものがありますね。研究者さんはどうお考えですか。

_ 研究者 ― 2009/04/13 18:47

そうですね・・・。個人的にユダヤ神秘主義のような「世界のすべての被造物は神の言語活動の影響をうけている」という神秘的言語論に興味をもっていた時期があり、もしかしたらノストラダムスもこのような考えを持っていたのかなあと夢想してしまいました。(^^;

ノストラダムスもポステルの影響をうけていたら知っていてもおかしくないんじゃないかなあと。

でも、予言集のなかにはそういったユダヤ神秘主義的なものは見つけることができませんでした。(^^;

_ 新戦法 ― 2009/04/13 23:58

研究者さん、

> でも、予言集のなかにはそういったユダヤ神秘主義的なものは見つけることができませんでした。(^^;

そうでしたか。ご参考までに、「ノストラダムスの作品に内在するカバラ(=ユダヤ神秘主義)の影響はあるか?」というテーマでブナズラがレポートを書いていますね。(CURAのサイト参照)『ノストラダムスとルネサンス』で竹下氏も「カバラとノストラダムス」という小論を書いています。そこではノストラダムス作品のなかでカバラがどういう役割を果たしたか、考察しています。

ただそれらを踏まえても個人的には、ノストラダムスを神秘主義者として少々美化しすぎてやしないかという感触を持っています。どちらかといえば新プラトン主義の思想に近いのではないでしょうか。特に序文で表現されている神秘主義的な記述は一者からの流出の観念に十分にマッチしていると思われます。

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