フランス語翻訳ソフトの実力を測る2010/01/01 22:15

本日から2010年がスタート。あけましておめでとうございます。今年もこれをお読みの皆様が良い年になりますよう祈念申し上げます。

ノストラダムスに関して良質な情報を提供しているウェブが、海外にもいくつか存在する。そのなかで例えばフランス語で書かれたページを閲覧すると、ブラウザ上に「Googleのツールバーを使用して翻訳しますか?」と出てくる。そういう設定になっている。「常に翻訳」をチェックにしておくと自動的に指定言語で翻訳してくれて重宝する。残念ながら現状では、ダイレクトに日本語へというのはまだ翻訳精度に難があり、意味が不明な文章も現れる。英訳までであれば概略の意味を掴むくらいなら十分使える。この機能により、自分の読めない言語でも一応翻訳で読むことができるので非常に便利である。自分自身、フランス語の読解力は英語に比べて落ちるので、 C.U.R.A.の論文などは英語バージョンも手許に残している。ただし、上記の翻訳機能はあくまでも簡易的なもので訳語の選択や修正までできるわけではない。

そこで市販のソフトも併用している。今パソコンに入っているのが「翻訳ソフト 明快翻訳フランス語2010」(http://www.crosslanguage.co.jp/)で最近購入した。機能としてはオフィスソフトで開いたWordのドキュメントファイルなどもレイアウト通りに翻訳してくれる。後は「キャプチャ翻訳」機能を用いると、画像化された文字認識すると同時に認識結果を翻訳してくれる。認識結果の編集もできるのでpdfファイルのテキストなどを読むのに便利である。今回このソフトのパフォーマンスを測定しようとちょっとした実験を行った。"Prophecies On Line"で公開されているアルブロンのフランス語論文を英訳すると、どの位時間がかかるか試してみた。論文の題名は"Le dominicain Giffré de Rechac ( 1604-1660) et la naissance de la critique nostradamienne, au XVIIe siècle." ページ数が1062、容量が5.95MBもある重厚なものである。センテンスが25352もあり、昨晩から翻訳してその結果を出力するまでほぼ1日かかった。

まずWordファイルの本文から順番に英訳、その後は脚注、ヘッダーの順に英訳。ステイタスバー100%完了と出ても、一見ファイルの応答がなくフリーズしたように見える。そこをじっとこらえて待つと、ようやくWordファイルへの吐き出しが完了。21:51開始、終了したのが翌日の21:01。編集時間 1087分。その間パソコンのファンはフルで回り放しで正直壊れるかと思ったほど。ここに結果をメモしておく。

ページ数: 1251
段落: 10106
行数: 53600
単語数: 630821
文字数: 3043412
文字数(スペースを含む): 3710184

ファイルサイズが7.13MBに膨れ上がった。これほどの容量のテキストでも一応翻訳可能であることが実証された。翻訳の精度も細かい点では問題があるがまあ合格点と見てよい。パソコン本体とともにソフトウェアにもあまりに過酷な仕事をさせたことに対し、労いの言葉をかけたいと思う。

ノストラダムス予言集はいかにして世に出たか2010/01/03 23:51

早いもので正月休みもあっという間に終りである。初詣に行ったり、買い物に行ったり、今年も東京カテドラルの日曜のミサに参列した。そのとき感じたのが、書物で読むキリスト教と実際の信仰のスタイルは必ずしも一致しない。自分の目で見て、耳で聞いて、声に出して感じることの大切さを改めて思った。当時の時代に身を置いたつもりで、ノストラダムス予言集がいかにして世に出たか、考えてみたい。ノストラダムス予言集の初版が1555年に印刷されたのは従来の解説書に書かれており、テクスト画像もインターネット上で閲覧できる。その書物が世に出るまでの経緯について想像を膨らませてみよう。本にするには原稿が必要である。ノストラダムス本人が印刷業者に手渡すための予言集の原稿を執筆したのは間違いない。原稿とはいっても一気呵成に書かれたとは思えない。テクストに関して様々なソースが指摘されているように、長年に渡って予言イメージの下書きメモを用意したのは想像に難くない。

そのメモをもとに十音綴詩(デカシラップ)の交韻のABAB脚韻を踏んだ(例外もある)四行詩に仕上げていったと考えられる。当然予言としての格調を上げるため何度も推敲したはずだ。その最終原稿をマセ・ボノムに引き渡して、その代償に対価を得たと思われる。ただしノストラダムス宛ての書簡に書かれた内容を鑑みるに相当読みづらい字体であった可能性が高い。ボノムの印刷工房に持ち込まれた原稿に基づいて植字工が活字箱から活字を拾い、それを組版に組んでいく。工房の親方が予め飾り文字や木版画の入るレイアウトを決めていたはずだ。それに従って刷り工が校正版を印刷する。校正刷りには一人あるいは複数の校閲者が目を通して誤植を訂正してから印刷に廻した。当時は著者が印刷所に行くことはめったになかったというのでノストラダムス自身が校閲したとは思えない。印刷、乾燥の終わった紙は折り番号の順に積み重ねられて一冊にまとめられる。1555年3月4日のことである。

ボノムには2年間の予言集の独占権を認められる特認が付与されている。その日付は1555年4月末日。当時いったい何部くらい印刷されたのだろうか。資料は残っていないがブリュノ・ブラセルの『本の歴史』89頁には一般大衆向けの本で1000~2000部というから当たらずとも遠からずといったところだろう。そのうち今日残っているのがアルビ標本と思われる。もっとも2年間何度か分けて印刷された可能性もあるので現存しているうちで最古の版としたほうがいいかもしれない。本はリヨンの書籍市場を通じてフランス国内に製本前の刷り本の状態で運ばれたのではないか。それを顧客が製本・装丁を施したと想像する。(前掲書82頁)印刷が終わると組版の活字はとっとと活字箱に戻されて、次の本の印刷で使用される。予言集初版のウィーン標本は一部誤植を修正して1555年6月頃印刷されたらしい。(ギナールによるが根拠は不明)この修正が著者本人によるものとは思えない。

ウィーン標本のテクスト画像もネット上で見られるが、アルビ標本と異なり本全体の装丁をカラーで示したものを見たことがない。個人的には興味があるのでいつか公開してほしいものだ。なおアヴィニョンで印刷業を営んでいたマセ・ボノムの弟バルテルミーにタイトルを変えた予言集初版の印刷を許可した可能性も指摘されているが、実証的な確認が取れないので未だに仮定的である。

好きなことだけやればいい2010/01/05 23:41

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4901784005.html
中村修二 好きなことだけやればいい バジリコ 2002年4月 を読んだ。著者の中村氏といえば、古巣の日亜化学工業を相手取り、青色LEDと青色レーザー、それに付随する特許の権利を巡って東京地裁に訴訟を起こしたことで一時期マスコミをにぎわせたのを覚えている。その正当な対価を支払うべきという、一サラリーマンの逆襲に見える果敢な行動力に内心喝采を送った人も多いだろう。本書を読んで中村氏の主張にももっともな言い分があるとわかった。中村氏はご自分の経験に基づいて人生の指南をしてくれる。ただし、氏の成功はもちろん才能と努力の賜物に違いないが、トーナメント理論でいうところのどんどん勝ち進んで行き、たまたま最後まで残った一人になった、漠然とだがそんな印象も受ける。結局のところ2005年に8億4千万で和解が成立した。

この本は書き下ろしなのだろうか。あるいは個別に発表した文章を一冊の本にまとめたものだろうか。というのも各章において結構重複した話が出てくるのでごつごつした感じを受ける。決して表面的にはスマートな文章とはいえないが、著者の主張が行間からにじみ出てくる臨場感を重視したのだろう。そのせいか非常に面白く仕上がった。なかでもロボットサラリーマンというのはなるほどと思った。自分で考えることをせずにただ上から言われたことを何の疑問も持たず従順に仕事をこなす永遠のサラリーマン。会社の道具になるのだったら一旦やめちまえ。そして自分の独創的なアイディアで起業せよ。平凡なサラリーマンは当たり前の日常のなかで仕事をしている。それを捨て去るというのはなかなか難しいので、元スーパーサラリーマンの経験談は夢と希望を与えてくれること間違いない。

各章の見出しは著者のワンポイントアドヴァイスのようになっている。逆転へのスピンアウト、自分の頭で考えろ、自分の成功パターンを作れ、自分のことをよく理解しろ、好きなことだけやればいい。これはビジネスのみならず将棋のような勝負事にも十分通用する。「自分の好きなことをやるために必要な行動を起こす」必ずしもうまくいくとは限らないが、人生を面白可笑しく生きていくには自分に自信を持つことが一番であろう。もう一回読んでみたくなる本である。

ノストラダムスは予言していた!「アイルトン・セナの事故死」2010/01/06 23:53

http://shop.kodansha.jp/bc/fushigi/
久しぶりに書店で「ノストラダムス」がクレジットされている本を見つけた。手に取ったところ、以前にも紹介したことのある『週刊世界百不思議』の2009.12.31号No.39 であった。そこには、仰天 ノストラダムスは予言していた!「アイルトン・セナの事故死」という記事が載っている。何故かノストラダムスは遠慮がちに文字が小さい。これを見ただけで『ノストラダまス 予言書新解釈』を思い浮かべてしまう。アイルトン・セナの事故死は衝撃的であったが、それをノストラダムスが予言していたというのは初耳である。どの四行詩を解釈したのだろうと該当箇所を開いてみる。第5巻1番「ケルト系が滅びる前/タンプル内の2番目について/軍馬にまたがり槍を持つ者に胸を刺され/貴人はひそかに埋葬されるだろう」

この訳文は『ノストラダムス全予言』の山根訳を書き写したものだが、一箇所だけ1行目の「フランス」を「ケルト系」に書き直している。これを読むと「確実にセナの死を言い当てていることがわかるはずだ」なんて大見栄を切っているが、解釈の引き当ては相当苦しそう。それでも懸命にコジツケようと詩に登場する言葉を各々解釈して見せる。その解釈がどうしても知りたい方は、お買い求めいただきたい。あまりお勧めはできないけれど・・・その他にも百詩篇6-91で1990年の日本GPにおける事故と鈴木亜九里の3位入賞、1-35でセナの死の描写、1-58でジャン・アレジの初優勝 等が予言されているという。F1に関する予言といわれても、やっぱりこれってノストラダまスじゃないか。同じような予言解釈のパロディ本に『すごいぜ!!ノストラダムス』というのもあるが、そのノリは上の信じられない超解釈と代わり映えがしない。

このような記事を掲載する『週刊世界百不思議』って、いったいどういう立ち位置なのか。セナの事故死のミステリーにノストラダムスを無理やり結び付ける演出は必要なのだろうか。わざわざ謎をでっちあげているだけではないのか・・・そんな疑惑がふつふつと湧き上がってくるのは自分だけではないはずだ。

百詩篇1-60の解釈にまつわる雑感2010/01/07 23:48

http://www42.atwiki.jp/nostradamus/pages/653.html
ノストラダムスの大事典で百詩篇第1巻60番の四行詩の項目が立てられている。「皇帝がイタリアの近くに生まれるだろう」という詩句が、ナポレオン一世を見事に予言したと、テレビの特番などに取り上げられることが多かった。日本でも第一次ブーム以前にすでに黒沼健氏が紹介していたこともあり、以後の解釈本には必ずと言っていいほど引用されてきた。自分が子供のときにこれを読んで、どこにもナポレオンなんて書いていないのにどうして予言的中といえるのか不思議だった。当時はナポレオンがどういう人物かほとんど知らなかったというのもあって、余計なバイアスがかかっていない分、ありのままに受け取れる。時は過ぎて・・・自分のHPで「ノストラダムスと心理学」という雑文でこの解釈を考察したことがある。

大事典にあるように、この詩は懐疑者から予言の曖昧さの好例としてしばしば批判を受けることがあった。志水一夫氏が参照した種本に、テレンズ・ハインズ博士の著書(邦訳『ハインズ博士「超科学」をきる』p75以下)がある。「こういう曖昧な文句はどのようにも解釈できる。最初にあげた詩はナポレオンの台頭を予言したものと考えられてきたが、ランディが指摘しているように、ヒットラーにもあてはまるし、神聖ローマ帝国フェルディナンド二世ということもありうる。実際のところ、15世紀から20世紀までの時代に(あるいは未来を含めて)イタリアの”近く”(曖昧きわまる表現)に生まれたヨーロッパの支配者で、よからぬ人間と手を結んで、国家に多大な出費を強いた者なら誰でかまわないのだ。」このときは多少なりとも歴史を学んだこともあって、皇帝ナポレオンというイメージが出来上がっていた。こうした懐疑的批判に対して、そういった単純な見方も論理的に乱暴ではないか。と、そう考えたこともあった。

当時「特命リサーチ200X」で、菊池聡氏が解説されたマルチプルアウトとか確証バイアスといった心理学用語が、予言批判のツールとして独り歩きをしていた。すぐさまこの記事に対して志水氏がご自身のHPで反論された。自著でのこの詩に関する解説部分は、テレンズ・ハインズ博士の本のみでなく他の資料を参照している。そうして「そんなことをいったらノストラダムスが偽預言者になってしまいますよ」と意味不明のことを書いていた。今となっては本人に聞くすべもないが、何をおっしゃりたかったのか今でもよくわからない。