ジョン・パートリッジとノストラダムス ― 2009/12/29 23:37
1693年、医師兼占星家の肩書を持つ、ジョン・パートリッジの『占星術論』Treatise of Astrology がロンドンで出版された。パートリッジといえばすぐに思い浮かぶのが、1708年、ジョナサン・スウィフトがアイザック・ビカスタッフ名義で作成した「1708年運勢暦」と題する10頁あまりのパンフレットである。当時のイギリスには毎年「運勢暦」を出版しては金を稼ぐ占星家がごろごろしていた。そのなかでもパートリッジは1680年以来年初めに「自由を獲たマーリン」と題する暦を発行し、類書のなかでは大当たりしている。猛烈なプロテスタントでもあり、カトリックやイギリス国教会を攻撃したことから、宮廷侍医の肩書まで得ていた。実は出生も怪しげな人物なのだが持ち前の処世術で評判は急上昇、同業者で一番の成功を収めていた。当時の知識層から攻撃を受けていたが、それをモノともせずにその声価は上がるばかり。そこに登場したのがスウィフトの強烈な風刺である。その波乱に富んだ顛末は中野好夫著『スウィフト考』の「パートリッジ事件とスウィフト」に詳しい。
『占星術論』は、そんな事件が起こるとは予想だにしない、パートリッジの全盛期に書かれたものと思われる。作品は全168頁、英語のスペルも一部には旧字が使われており少々読みづらい。その124頁ではノストラダムスのホロスコープ(出生占星図)が取り上げられている。ノストラダムスが用いたのと同じ四角いタイプのチャートである。その出生データはGadburyがガランシェールの英訳から引いてきた伝記に基づいている。ノストラダムスが1503年12月14日木曜日正午頃サンレミで誕生。1566年7月2日サロンで痛風と浮腫のため死去。62年と6ヶ月生きたことになる。場所の緯度はおおよそ43度、第10のハウスで磨羯宮の2度、アセンダントで宝瓶宮の11度が不可解、中天に磨羯宮の2度ができると上昇時には白羊宮の4度ほどになる。・・・こんな感じで4頁にわたり所見を述べている。残念ながら占星術の教義には疎いので、何を言いたいのか、今ひとつつかみとれない。はっきりしているのは、上の占星図は、以前紹介したツェントゥーリオのものと微妙にずれているということ。
パートリッジは最後に結論としてこう書き連ねている。「この出生図は12時頃、11時数分前を表している。このときノストラダムスは白羊宮が上昇になく、宝瓶宮の後の部分、第十の宮、人馬宮にある。その配置と効果のもとで死去の当時は太陽の影響下で作用している。生命に関与するのは火星と土星のありふれた合、その正確な方角は痛風と浮腫を暗示している。そのゆえジョン氏がこれを十分な根拠と考えないならば、私はより真正に近いものを求めるだろう。」浅学な自分にはなかなか理解するのが難しい。どなたかご教授いただければ有難い。
『占星術論』は、そんな事件が起こるとは予想だにしない、パートリッジの全盛期に書かれたものと思われる。作品は全168頁、英語のスペルも一部には旧字が使われており少々読みづらい。その124頁ではノストラダムスのホロスコープ(出生占星図)が取り上げられている。ノストラダムスが用いたのと同じ四角いタイプのチャートである。その出生データはGadburyがガランシェールの英訳から引いてきた伝記に基づいている。ノストラダムスが1503年12月14日木曜日正午頃サンレミで誕生。1566年7月2日サロンで痛風と浮腫のため死去。62年と6ヶ月生きたことになる。場所の緯度はおおよそ43度、第10のハウスで磨羯宮の2度、アセンダントで宝瓶宮の11度が不可解、中天に磨羯宮の2度ができると上昇時には白羊宮の4度ほどになる。・・・こんな感じで4頁にわたり所見を述べている。残念ながら占星術の教義には疎いので、何を言いたいのか、今ひとつつかみとれない。はっきりしているのは、上の占星図は、以前紹介したツェントゥーリオのものと微妙にずれているということ。
パートリッジは最後に結論としてこう書き連ねている。「この出生図は12時頃、11時数分前を表している。このときノストラダムスは白羊宮が上昇になく、宝瓶宮の後の部分、第十の宮、人馬宮にある。その配置と効果のもとで死去の当時は太陽の影響下で作用している。生命に関与するのは火星と土星のありふれた合、その正確な方角は痛風と浮腫を暗示している。そのゆえジョン氏がこれを十分な根拠と考えないならば、私はより真正に近いものを求めるだろう。」浅学な自分にはなかなか理解するのが難しい。どなたかご教授いただければ有難い。
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