竜王戦第三局は渡辺が勝って二勝目 ― 2007/11/15 01:23
http://live.shogi.or.jp/ryuoh/
今出張中のビジネスホテルでこれを書いている。先ほどBS2で本局のミニ解説を森内名人と山田久女流とでやっていたのを見た。それによると終盤双方一分将棋で最後の最後に竜王がよくやく寄せ切ったといった感じで投了直後の渡辺のやれやれといった表情が印象的だった。これで昨今のタイトル戦では珍しく後手番の三連勝。逆に見れば先手が作戦選択の利を生かし切れていないことになる。本局の意表を突いた佐藤のヒネリ飛車も結局は不発に終わった。
それにしても経験値が少ないはずの渡辺の対ヒネリ飛車の対策は万全。右辺を軽く受け流し玉側に金銀を集めて手厚くするといった定番の差し回しにスキは感じられない。封じ手は予想通りの▲3九玉。そこからさらに駒組みになったが56手目渡辺の△9三桂がちょっとひねった一手。この桂馬も後で働いた。佐藤の秘策はと見ていると61手目の▲1五歩が強気の作戦だがその是非は微妙だ。結果的には反撃され傷を作っただけにも思える。その後の渡辺の指し回しは緩急自在、76手目の角切りはまったく思い浮かばない。終盤は大差の形勢となってしまったが佐藤も見せ場を作った。
将棋の内容を見る限りでは渡辺のほうに勢いを感じる。佐藤は明らかにスランプに陥っており、勝ち運に見放されたかに見える。渡辺が次の先手番をモノにすればすんなり防衛となりそうだが、そうは問屋がおろすまい。佐藤は早く立ち直りのきっかけをつかみたいところだ。
今出張中のビジネスホテルでこれを書いている。先ほどBS2で本局のミニ解説を森内名人と山田久女流とでやっていたのを見た。それによると終盤双方一分将棋で最後の最後に竜王がよくやく寄せ切ったといった感じで投了直後の渡辺のやれやれといった表情が印象的だった。これで昨今のタイトル戦では珍しく後手番の三連勝。逆に見れば先手が作戦選択の利を生かし切れていないことになる。本局の意表を突いた佐藤のヒネリ飛車も結局は不発に終わった。
それにしても経験値が少ないはずの渡辺の対ヒネリ飛車の対策は万全。右辺を軽く受け流し玉側に金銀を集めて手厚くするといった定番の差し回しにスキは感じられない。封じ手は予想通りの▲3九玉。そこからさらに駒組みになったが56手目渡辺の△9三桂がちょっとひねった一手。この桂馬も後で働いた。佐藤の秘策はと見ていると61手目の▲1五歩が強気の作戦だがその是非は微妙だ。結果的には反撃され傷を作っただけにも思える。その後の渡辺の指し回しは緩急自在、76手目の角切りはまったく思い浮かばない。終盤は大差の形勢となってしまったが佐藤も見せ場を作った。
将棋の内容を見る限りでは渡辺のほうに勢いを感じる。佐藤は明らかにスランプに陥っており、勝ち運に見放されたかに見える。渡辺が次の先手番をモノにすればすんなり防衛となりそうだが、そうは問屋がおろすまい。佐藤は早く立ち直りのきっかけをつかみたいところだ。
思想なんかいらない生活 ― 2007/11/15 23:09
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4480061797.html
勢古浩爾 思想なんかいらない生活 ちくま新書 2004 を読んだ。この本は何と言ったらいいのだろうか。例えは適切ではないがと学会がオカルトさんを批判するといったノリで世間一般で知識人、インテリといわれる人たちの著作をバッタバッタとめった切りしている。後書きにも書いているがこんなお堅い業界で一人浮いた感じで茶化したような批判を書いて大丈夫なのだろうか―人ごとながら心配になる。確かにエライ思想家の先生の書いている文章は自分のような素人が読むとまったくちんぷんかんぷん、何が言いたいのかわからないというのは同感である。しかし、それにしても・・・・
この本で取り上げている思想というのは「生きているこの身にしみ、心に食い入ってくるもの」という。思想と哲学は似て非なるものなのだ。哲学は論理学と親和性があるが思想というのは著者の言葉を借りると「ひとりの思想」、無意味な自分を意味ある自分として生きるための「思想」である。そうして「ひとりのふつう」として生きようと決心するのである。この部分はアウトロー的なスタンスになんとなく共感するところが多い。その条件を五つ挙げている。①群れない②他人の欲望を自分の欲望にしない③「知」を優位に置かない④できるかぎり自分を承認する⑤無意味を意味として生きる。
この本を読むと何かしら人生を達観できたような錯覚にとらわれるが、人間は誰しも理不尽な世の中の「事実」のなかでしか生きられないというのは間違いない。
勢古浩爾 思想なんかいらない生活 ちくま新書 2004 を読んだ。この本は何と言ったらいいのだろうか。例えは適切ではないがと学会がオカルトさんを批判するといったノリで世間一般で知識人、インテリといわれる人たちの著作をバッタバッタとめった切りしている。後書きにも書いているがこんなお堅い業界で一人浮いた感じで茶化したような批判を書いて大丈夫なのだろうか―人ごとながら心配になる。確かにエライ思想家の先生の書いている文章は自分のような素人が読むとまったくちんぷんかんぷん、何が言いたいのかわからないというのは同感である。しかし、それにしても・・・・
この本で取り上げている思想というのは「生きているこの身にしみ、心に食い入ってくるもの」という。思想と哲学は似て非なるものなのだ。哲学は論理学と親和性があるが思想というのは著者の言葉を借りると「ひとりの思想」、無意味な自分を意味ある自分として生きるための「思想」である。そうして「ひとりのふつう」として生きようと決心するのである。この部分はアウトロー的なスタンスになんとなく共感するところが多い。その条件を五つ挙げている。①群れない②他人の欲望を自分の欲望にしない③「知」を優位に置かない④できるかぎり自分を承認する⑤無意味を意味として生きる。
この本を読むと何かしら人生を達観できたような錯覚にとらわれるが、人間は誰しも理不尽な世の中の「事実」のなかでしか生きられないというのは間違いない。
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