アヴィニョンのノストラダムス2008/11/22 23:27

ノストラダムス本人が自伝を残していないせいもあり、少年時代について詳しいことは知られていない。わずかに、シャヴィニーの伝記にアヴィニョンの大学で人文学を学んだと記されている。実証的な伝記を書いたエドガー・ルロワにしても、アヴィニョンで就学した決定的な裏付けを示していない。『化粧品とジャム論』の序文に、1521年から1529年に各地を遍歴して薬草の知識を蓄積したとある。そこから逆算して、1520年末にアヴィニョンで広まったペストのため学業が中断したというのは一応辻褄が合う。現在アヴィニョンは法王庁やプチパレ美術館、有名なベネッセ橋など観光名所が満載で自分も二度訪れたことがある。アヴィニョン大学も見ることができるが16世紀には旧法王庁の内部にあったらしい。

ノストラダムスのアヴィニョン時代については史料が乏しいため自由にいろいろなことが書かれている。トゥシャールは「毎晩、染物業をしている叔母マルグリットのもとへ通った」(『時の旅人ノストラダムス』44頁)と述べている。クオークスペシャル『ノストラダムスの謎』では、存在しないシャヴィニーの記録やアヴィニョン時代の学友の日記をでっちあげている。(同書42-43頁)同様の創作はリシャール・バルデュシの伝記にも見られる。(『ノストラダムスの驚くべき生涯』36-43頁)唯一の手がかりとして、蔵持不三也著『シャルラタン』305頁には『化粧品とジャム論』30章(1556年リヨン版217頁、1557年アントウェルペン版76頁)から引用している。(この本は本棚のなかでずっと行方不明だったが最近久しぶりに見つかった。)

「アヴィニョン大学にも何人かの人物(医学部教授)はいたが、彼らはキリストがわれわれに説いていること、すなわち泥棒に盗まれる心配のない天上の富を蓄えよという言葉とは、まさに正反対の者たちだった。」なかなか意味は取りづらいが、アヴィニョンの医学部では実践的な医学を教えていなかったことが窺われる。この部分はノストラダムス自身の言葉でもって一時期アヴィニョン大学で学んだことの大きな裏付けとなろう。