「ロンサール研究」に見るノストラダムス ― 2020/04/20 23:56
CiNiiでNostradamusで検索すると「ロンサール研究」誌にノストラダムスに関する論文が二つ見つかった。まさかこれにノストラダムスの論文が掲載されるとは夢にも思わなかった。
NOSTRADAMUS ET LES JEUX OLYMPIQUES ノストラダムスとオリンピックゲーム
BOUCHET Sylvain
BOUCHET Sylvain
ロンサール研究 = Revue des amis de Ronsard (32), 47-66, 2019
L'IMPACT DES INDIENS ET DES BABYLONIENS CHEZ NOSTRADAMUS ノストラダムスにおけるインド人とバビロニア人の影響
ALLEMAND Jacqueline
ALLEMAND Jacqueline
ロンサール研究 = Revue des amis de Ronsard (30), 65-87, 2017
アルマン・ジャックリーヌはメゾン・ド・ノストラダムスの元館長で以前お会いしたことがある。アルマンは当時もノストラダムスに関する論文を書き、それをメゾン・ド・ノストラダムスで販売していた。あるいは2000年に刊行されたノストラダムスの論文集"Nostradamus traducteur traduit"に「オラポロンからガレノスへ」を寄稿したこともある。手元にはアルマンにサインとメッセージを書いていただいた本がある。アルマンは2013年にノストラダムスの伝記"Michel de Nostredame de Saint-Rémy-de-Provence"を出版しているが、これは残念ながら未見である。
ノストラダムスに関する学術論文は海外でもかなり少ないらしい。1965年度から1994年度に発表された業績は年平均4.5件に留まるという。(『ノストラダムスとルネサンス』302-303頁)岩波の2冊の本『ノストラダムス 予言集』と『ノストラダムスとルネサンス』は、日本で出版されていた予言解釈にフォーカスしたものとは一線を画し、ノストラダムスをフランスルネサンスの文化人として扱っている。この2冊を凌駕するノストラダムス論がなかなか出てこないというのは、やはり日本の大学人のなかでノストラダムス研究が学術的な業績と認められることが難しいためだろうか。
海外に目を向けると、ロシアのアレクセイ・ペンゼンスキーは多くの学術論文を発表していた。残念ながらロシア語なので読み込むことが難しいが翻訳ソフトで概要を掴むことはできる。最近入手したものでは2016年のドニ・クルーゼの"Nostradamus and the res mirabilia"「ノストラダムスと驚異話、自然の知性と神の言葉の間」と2017年のジャン・ジュペーブの"Nostradamus à l'école de l'expérience"「経験学派としてのノストラダムス」(「ノストラダムス人文主義者」の改訂版)がある。「ロンサール研究」誌は海外論文も収録し、日仏会館の図書館では開架で閲覧できたし貸出も可能であった。
かなり前になるが「ロンサール研究 X特別号」(1997年)の伊藤進氏の論文「空中に起こる一切の奇怪な現象」のなかでノストラダムスが取り上げられたことがある。現在は新型コロナウィルスの影響で外出自粛のため図書館も閉鎖されてアクセスも難しい。そのため国会図書館関西館に初めて遠隔複写サービスを申し込み、それが本日届いた。連休もあるのでじっくり読んでみたいと思う。学術論文といえば、ノストラダムスの大事典のsumaruさんはノストラダムスの文学的研究の修士論文を2年間かけて仕上げるという。完成した暁には公刊が期待される。
『ノストラダムスの大予言』445版 ― 2020/01/25 22:52
かなり久し振りの更新となる。ノストラダムスについてはその後も資料は入手しており、sumaruさんが紹介していない小ネタも数多くあるのだが忙しさに感けて手を付けていない。今回ノストラダムスの大事典 編集雑記で昔ブログに書いた『ノストラダムスの大予言』の445版に関するコメントを見つけたので念のため確認しておこうと思ったのだ。ノストラダムスの大事典の「『ノストラダムスの大予言』の各版の違い」はsumaruさんの執念を感じさせるほど綿密な調査報告となっている。
自分自身ではその後は『ノストラダムスの大予言』の別な版を入手することもなく追加調査はしていない。sumaruさんのレポートをただただ驚きの目をもって読ませていただいているだけである。どうやってこれほどのサンプルを入手しているのかは明かされていないが、10年以上も粘り強く調査を続けてこられた成果なのだろう。さて編集雑記には、以前私が紹介した445版を入手したところ青版であったと書かれている。ひょっとして自分の勘違いがあったかもしれないと手元の本を引っ張り出したところやはり445版であり、カバーは水色版で森村誠一の推薦文は裏表紙で間違いはない。価格も編集雑記に載せられた画像とまったく同じである。
なぜそのような食い違いが起きたかと言えば、返本制度に由来するものと実に興味深い指摘がなされている。返本制度自体は知っていたが返本されたものにカバーを付け替えて再出荷することがあるというのは初めて知った。おそらく手元の水色版は一度返本されてカバーが青版から水色版に変わったのだろう。手持ちの『大予言』がそんな遍歴を辿った本であったとはまさに目から鱗である。ノストラダムスの大事典の記事も近々アップデートされるというので楽しみにしている。
エクス・アン・プロヴァンスにおけるペスト治療 その3 ― 2019/08/16 01:39
1546年のエクス・アン・プロヴァンスにおけるノストラダムスの実在を裏付ける文書として、市の出納係Paul Bonnin(ポール・ボナン)による1546年6月の証明書が残っている。市の会計簿と当時ノストラダムスに支払われた報酬の記録が保管されている。プロヴァンス・イストリック(画像参照)に掲載されたウージェヌ・レーの論文「ミシェル・ド・ノートルダムの書簡の断片の概要、続編」(1961年7月)217頁によると「エクス・アン・プロヴァンス市町村文書館」CC 460, f.23に次のような記載が残っている。
"M[aitr]e Micheou de Nostredame, dix écus d'or sol pour son entrée dans la convention faicte comme appert plus a plain au mandement et acquit cy produits, cy XXXVII fs [florins] VI s [sous]."
ミシェル・ド・ノートルダム師、ソル金貨の10エキュ、発注書に明らかにされたこれらの成果を得るための参入協定に対して。フローリン貨37枚。スー貨6枚。(筆者訳)
ミシェル・ド・ノートルダム師、ソル金貨の10エキュ、発注書に明らかにされたこれらの成果を得るための参入協定に対して。フローリン貨37枚。スー貨6枚。(筆者訳)
時期的なところから判断すると、エクスでペストが発生した直後にノストラダムスが「エクサン・プロヴァンスの町の役所に雇われて住民の治療にあたった」(『ノストラダムスの万能薬』60頁)ことになる。『化粧品とジャム論』の原文は以下の通り。
je seus esleu & stipendie de la cite d'Aix en Prouence, ou par le senat & peuple je sus mis pour la conseruation de la cite, ou la peste estoir tant grande, & tant espouuentable
私はエクスアンプロヴァンスの町あるいは議会や人びとに選ばれ雇われた。私はペストで汚染されて目を覆うばかりのその町の救助に努めた。(筆者訳)
ノストラダムス自身の言葉とはいえ、当時ペスト治療の名医としてすでに評判が高かったことを示している。1544年5月、マルセイユで先輩医師ルイ・セールのもと疫病と治療を研究しながら実践を積んでいた。1545年には弟のジャン・ド・ノートルダムがエクス・アン・プロヴァンスで法律家になっている。『化粧品とジャム論』(1555)の第二部にはエクスの高等法院検事(procureur)であるジャンに宛てた献辞が載っている。この要請にジャンが関わっていたという想定はそれほど突拍子もないとはいえない。
1546年6月の証明書はノストラダムスが前金で契約したことを示している。医者であってもいつペストに感染するかわからない危険と隣り合わせで現地に入ることを考えれば当然の要求といえる。これはいったいどの程度の報酬だったのであろうか。貨幣の呼び名は同じでも時代によってその価値は変わってくる。参考までにノストラダムスの遺言書に記された財産は3444エキュと10スー。またアダン・ド・クラポンヌが運河の灌漑工事のために調達した資金が8000エキュであるとされる。
240ドゥニエ=20ソル(スー)=1リーブル(フラン)とする。仮に1ドゥニエ=500円とすれば、10エキュ=240×500×10=120万円、フローリン銀貨を18000円とすると、18000×37=66.6万円、スー銀貨を6000円とすると、6000×6=36000円。合計すると190.2万円となるがこれはあくまで目安に過ぎない。同様に計算すると財産は4億1334万円となり相当莫大な金額となる。ちなみに運河の資金は9億6000万円となりオーダー感としてはそんなものか。
(了)

エクス・アン・プロヴァンスにおけるペスト治療 その2 ― 2019/08/16 01:18
エドガー・レオニも『ノストラダムス、生涯と作品』(1961)22頁ではセザールの該当部について省略なく英訳を行っている。
Persons stricken by the furor of this malady completely abandon all hope of recovery, wrap themselves in two white winding sheets, and give forth even while they live (unheard-of thing) their sad and lamentable obsequies. The houses are abandoned and empty, men disfigured, women in tears, children bewildered, old folk astonished, the bravest vanquished and animals pursued. The palace is shut and locked, justice silent and deserted, Themis absent and mute, the stretcher-bearers and street porters work on credit. The shops shut, arts halted, temples solitary and the priests all confused. In brief, all the streets villous, wild and full of weeds because of the lugubrious absence of man and beast for the 270 days that the evil lasted…
この病気の怒りに襲われた人は、回復のすべての希望を完全に放棄し、2枚の白い巻いたシートに身を包み、(前代未聞の)悲しく哀れな卑劣な生活をしながら生き延びている。 家は捨てられ、空っぽで、男性は外観が醜くなり、女性は涙を流し、子供たちは戸惑い、老人は驚き、勇敢な者は打ちのめされ、動物は追いまわされる。 宮殿は閉ざされ、施錠され、正義は沈黙し、捨てられ、テミス(注:ギリシア神話の法・掟の女神)は不在で口がきけなくなり、担架担い手と通りの守衛は信用で働く。 店は閉まり、手仕事は止まり、寺院は寂しくなり、司祭たちは皆困惑した。 手短に言えば、不幸が続いた270日間の人間と獣の陰鬱な欠乏のために、すべての通りは絨毛で覆われ、荒涼となり、雑草でいっぱいであった…(筆者訳)
これを読むとエクスのペストの凄まじさが目に浮かんでくる。海港マルセイユに近いこともありエクスはそれまで何度もペスト禍に見舞われてきた土地である。現代の日本ではペストという圧倒的な伝染病の恐怖を感じ取ることは難しい。しかし十六世紀フランスでは現実に原因不明の伝染病がしばしば発生し、人々の生命を次から次へと奪っていった。その対策として隔離と逃亡くらいしか打つ手はなかった。ノストラダムスは医師としてこれに果敢に立ち向かったのだ。
そのなかで薬剤師としてのフィールドワークの経験に基づいてペストを予防する調合薬を作ったようだが現実的には公衆衛生環境の改善に着眼したものだったろう。ノストラダムスはほとんど自伝的な記述は残していないが、この部分は「ペストが流行したとき、害毒に満ちた空気を効果的に追い払うことのできた香料」(『ノストラダムスの万能薬』60頁)の効用を証明するために詳述したという。『化粧品とジャム論』では猛烈な疫病を直に目の前にした当時の緊迫感が伝わってくる。
シャヴィニーの記述に戻ると、「我等の著者(ノストラダムス)により作成された真実の報告」というのは『化粧品とジャム論』の記述のことだろう。ローネイの領主の「世界劇場」とは1558年にパリで出版されたブルトン人のピエール・ボエスチュオ(別名Launay)の『世界劇場』 Le théatre du mondeを指している。初版はラテン語版で後にフランス語訳が出ている。特認の日付は1558年7月1日。翌1559年にはパリのJean LongisとRobert le Mangnyerにより再版された。
十六世紀学者のミシェル・シモナンの論文「ノートルダム、ボエスチュオ、シャヴィニーと1546年のペスト」(1983)によれば、ボエスチュオの説明はノストラダムスの『化粧品とジャム論』における証言の劣化コピーにすぎない。そのテクストはパトリス・ギナールのCORPUS NOSTRADAMUS 20: Boaistuau et Marconville : le compilateur et le plagiaire (ボエスチュオとマルコンヴィユ:編集者と盗作者)で『化粧品とジャム論』のオリジナルと『世界劇場』 pp.69-71のテクストの比較を読むことができる。
改めてGoogle Booksで公開されている1559年版(画像参照)を見ると、1546年のエクスのペスト禍の記述は『化粧品とジャム論』に依拠しているけれども、ノストラダムスの名前はどこにも見当たらない。ボエスチュオはペストの情報として自著のなかで単に編纂しただけかもしれない。セザールは『化粧品とジャム論』を見ることなく、シャヴィニーの伝記から『世界劇場』を参照して記述したのだろうか。『化粧品とジャム論』は16世紀に何度も再版されているのでそれはそれで不自然ではあるのだが。
(続く)

エクス・アン・プロヴァンスにおけるペスト治療 その1 ― 2019/08/16 00:51
ノストラダムスといえばペスト治療に従事した医師として知られている。秘書であったジャン・エメ・ド・シャヴィニーの『フランスのヤヌス第一の顔』(1594)に収録された伝記(同書2頁)にはノストラダムスがエクス・アン・プロヴァンスで行ったペスト治療についての記述が見られる。
Arriué à Marseille, vint à Aix parlement de Prouence, où il fut trois années aux gages de la cité, du temps que la peste s'y eleua en l'an de CHRIST 1546. telle, si furieuse & cruelle, que l'a descritte le Seigneur de Launay en son Theatre du monde, selon les vrais rapports, qui luy en furent faits par nostre Auteur.
マルセイユに到着してからプロヴァンスの高等法院のあるエクスにやって来た。そこでノストラダムスは三年間その町に雇われることとなった。その時期はペストが発生したキリスト紀元1546年にあたる。それは非常に烈しく苛酷なもので、我等の著者(ノストラダムス)により作成された真実の報告に従った、ローネイの領主の「世界劇場」にその記載が見られる。(筆者訳)
まずマルセイユからエクスまでの移動はどうだったか。Google Mapで徒歩で検索をかけると距離は約30km、時間にすると約6時間半になる。これなら馬を使わなくても同日中に到着できる。「1486年に、プロヴァンスの他の地域とともにフランス領となり、1501年にルイ12世がこの都市(エクス)にプロヴァンスの高等法院(parlement)を設置した。 」(ウィキペディア)というから一応シャヴィニーの記述に齟齬はない。ただし、本当に三年間その町で雇われたのかは疑問が残る。
ノストラダムス自身は1555年の『化粧品とジャム論』(画像参照)の第一部八章(原書50頁以下)においてエクスでペスト治療に当たったときの状況を詳しく書き残している。
そこでは、ペストは五月の終わりに始まり、丸九カ月の間続いた。すべての年代の者が、食べながら、また飲みながら、これまでとは比較できないほど死んでいった。墓地は死体でいっぱいになったので、もはや埋葬するための神聖な場所は見つからなかった。(中略)世界中で、この調合薬以上にペストを予防するような薬は見つからないだろう。これを口に含んでいた者はみな身を守られたのであった。そして終わりころには、これが人々を感染から守ったことが経験から明らかになった。(中略)そこで発生したペストは非常に悪性で激しいものであって、多くの者が、神による罰であると述べていた。というのは、そこから一リーヴ離れたところでは健康だったのである。町全体がひどく汚染されて、感染した者が一瞥するだけですぐ他の者も感染したのである。(中略)患った者に薬を処方して運ばせても、十分に服用されず、口に含んだまま多くの者が死んでいった。(『ノストラダムスとルネサンス』246-247頁、伊藤和行訳を編集した)
1546年にエクスの町でペストが猛威を振るったのは事実のようで息子セザールの『プロヴァンスの歴史と年代記』(772頁B)にも当時の状況について記述している。著作の他の部分ではノストラダムスの伝記を細かく挿入しているにも関わらず、なぜかここでは父親のペスト治療についての言及がない。竹下節子訳はセザールのテクストを一部省略したエドガー・ルロワの『ノストラダムス、出自、伝記、作品』(1993)66頁をベースに簡潔にまとめた形となっている。
La cité en est tout-à-coup deshabitee & deserte. Les personnes attaintes de la fureur de ceste maladie chassent incontinent toute esperance de salut. les maisons sont abandonnees et vuides, les hommes desfigurez, forts vaincus & les animaux poursuivis : le Palais clos & ferme, la Justice en silence & desertion, Themis absente & muette, & les portefaix & sandapilaires en credit : les boutiques fermees, les arts cessez, les temples solitaires & les Prestres tous confus.
町から突然人の姿が消え、荒涼としていた。この病にかかった者はすぐにすべての救いの希望を失う。家々はうち捨てられ、老人や子供も彷徨い、役所も店も閉まり、司祭たちも当惑し、ただ棺桶屋だけが働いていた。(竹下節子『ノストラダムスの生涯』80頁)
街は突然人が住まうことなく、見捨てられる。 この病気の凶悪さを被った人々は、救済のすべての希望を追い払う。 家は無人で空いており、人びとは醜く変わり、強烈に打ち負かされ、動物は追われる:宮殿は閉ざされ、締め切られ、正義は沈黙と脱走、テミスは不在と無言、そして運搬人たちと墓守たちは信用貸し。店は閉鎖され、仕事は中断し、寺院は寂しく、司祭たちはみな困惑した。(筆者訳)
(続く)

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