リー・マッキャン2021/08/29 22:05

ノストラダムスの大事典の記事「ノストラダムスの大予言III」を読むと、五島勉がサンチュリ10-65を最後の秘詩と呼んだ「アメリカのある女性研究家」の考察の中でリー・マッキャンについて触れている。本当に些細なことだが、記事のなかで名前から性別がわからないとしている。が、リー・マッキャンは紛れもなく女性である。彼女の『Nostradamus The man who saw through time(ノストラダムス、時を超えて見た男)』の1941年の初版本のカバーの裏に著者紹介の文章が載っている。そこには、リー・マッキャンはMiss McCannとある。著者紹介はおそらく出版社側で書いたものだから、出版に当たって直接打ち合わせをしたであろう著者が男性か女性か間違うはずもない。この本は現在まで数多くの再版本が出ているが初版の後ろカバーに書かれた著者の情報は再録されていない。初版本がいわゆるタイプではなくトークンというべきだろう。(最近読んだ『読む打つ書く』の影響!)

五島勉が『ノストラダムスの大予言スペシャル日本編』143頁でマッキャンを「闇の掟もタブーも笑いとばすエネルギッシュな研究者」といかにも男性のように書いているので「これは原書をちゃんと参照していないな」とニヤリとしたものだ。ただ、こんなところを一般の読者が気にとめることはない。なんともマニアックな話題である。ちなみに著者紹介によると、マッキャンはアメリカのケンタッキー州のレキシントン市で生まれた。そしてアメリカとヨーロッパで芸術(art)を勉強した。その後、芸術とアンティークのテーマで執筆を続ける傍ら最近ではこの本(ノストラダムス本)の研究と執筆の仕事をしてきたという。本が出版されたのもニューヨークであるし、生まれもアメリカであることからマッキャンはアメリカ人とみてよい。

マッキャンについてはスチュワート・ロッブがその著書『Nostradamus on Napoleon Hitler and the present crisis』(1942年)の147頁の脚注で「Miss Lee McCann (ミス・リー・マッキャン)は彼女の予言者の魅力的な(pleasing)伝記のなかで10-100の位置づけについて書いている・・・」と述べているし、1941年の雑誌『The New Age Magazine』570頁や1942年の雑誌『Theosophical Forum』93頁にもミス・マッキャンと紹介されている。初版本が出た当時はマッキャンが女性であるのは周知の事実だったことがわかる。その後の経歴についてはよくわからない。1985年に出版された再版本を久しぶりに引っ張り出してみたら、10-65を引用した箇所(同書74頁)のところに付箋が貼ったままであった。同じようなところに目をつけるものと思った次第。同書ではサンチュリ10-65の前振りにこう書かれている。

彼(ノストラダムス)は、新しい学問が自由に広まることに対する教会の気持ちも理解していた。彼自身、印刷機によって取り戻された古代文化の長い間失われていた宝物に熱心に手を伸ばし、すべての人に知性の王国を約束する萌芽的な知識の美しさと蜃気楼に胸を躍らせていたが、その危険性にも気づいていた。知識の流入と普及は栄光をもたらすだろうが、それが人々の心にゆっくりとした狂気と幻滅の霜を生み出すかもしれないことを、彼はすでに察知していた。杭と棚は何を生み出すだろうか?新しい自由とこれらの競争は、日に日に新しい犠牲者を増やしていきました。このようなことが、穢れなき未来に向けて、どのような悲劇をもたらすのか。時の道のどこで終わるのか?
ノストラダムスは後にこう嘆いている。
X-65  ああ、偉大なるローマよ、汝の破滅は近づいている。城壁ではなく、汝の血と本質の破滅だ。印刷された言葉は恐ろしい破壊をもたらし、短剣の先は思い切り打ち込まれるだろう。

これを読む限り五島勉のいう「最後の秘詩」と関係があるようには思えない。ここに引用した解釈はあくまでもマッキャンの創作に過ぎない。あとアメリカの女性研究家といえばリズ・グリーンの『The Dreamer of the Vine - A Novel About Nostradamus』(1981)あたりが思い浮かぶが、『ノストラダムスの大予言III』はこの本の前に出版されていたと考えられる。そもそも小説なので四行詩の細かい検討に意味がない。

マッキャンの本は当時も人気があったようで、翌年1942年にはストックホルムでスウェーデン語版『Nostradamus : mannen som såg in i framtiden(ノストラダムス、未来を見た男)』が出ており、古書が手元にある。原書を比べてみると忠実に翻訳されており、訳者による解説などは載っていない。ただスウェーデン語版は原書に載っている挿絵と異なっている。ノストラダムスの肖像は帽子をかぶったタイプに差し替えられているがそのあたりの理由はよくわからない。


モトゥールの詩2020/11/30 21:39

先に紹介した『超能力事件クロニクル』を読み進めると、ノストラダムス以外の項は近過去の超能力者を取り上げていることで、検証という意味では著作、新聞、雑誌、テレビ出演などさまざまな資料で裏付けを得ることができる。そのため文章の構成もその当時の時代背景からその後の顛末といった流れで展開されており読後もすっきりする。ところがノストラダムスは日本でブームになったということで1970年代の超能力事件に分類されてしまっている。超能力者的な予言者の扱いということであれば黒沼健が1952年に発表した「七十世紀の大予言」を皮切りに1960年代に何度もノストラダムスについて紹介している。黒沼は自著のなかで五島勉の1999年人類滅亡という解釈について1973年に新説が出たと述べている。ノストラダムスは16世紀フランスに生きた人物であるから伝記や著作に関して残された資料は少ない。そうした観点からすると確実にこうだという確証もなかなか難しいところがあるし、どうしてもモヤモヤした感じが拭えない。

特に著者にケチをつけるつもりはないのだが、公刊されたものなので気になるところを指摘しておこう。1973年の五島のベストセラー本と比べるとほとんど読まれていないであろう電子書籍版にでてくる、アヴィニョン学生時代のモトゥールの話を紹介している。もちろんこれが五島得意のフィクションであるのは自明なのだが、モトゥールについてこう解説している。

モトゥールが当時なかったというのは五島が再三語る定番ネタの一つだが、モトゥールは元々「動かすもの」を意味する語で、9世紀から15世紀を対象とするフレデリック・ゴドフロワの古語辞典にも載っているため、明らかに嘘である。(同書185頁)

ここには「嘘」と書いてあるが、嘘とは「事実に反する事柄を故意に表明したもの」というイメージである。果たして五島が故意に誤りを書いたのだろうか、それはご本人でなければわからない。当初は単に思いつきで書いた勘違いかもしれない。その後1985年に出版された『1987年 世界大戦を予告する悪魔のシナリオ』118頁で訳者の淡路誠が五島のいうモーターという解釈についてこう批判している。

つまり、ここでいうmoteurとは、ラテン語のmovere(「動かす」の意)から派生したもので、「物を動かすもの」から「モーター」という意味が、また「人を動かすもの」から「支配者、主導者」という意味が生じたことを五島氏はは知らないようだ。

おそらく五島はこの本は読んでいるだろうから、それを承知でその後もモーターの解釈を変えなかったのは事実である。五島を特に擁護するつもりはないが、自分で書いたものはたとえそれが周りから間違いを指摘されても見解の相違だと強弁したくなるのは誰しもあることだ。五島が中期フランス語の辞書を調べた上で「当時まだこの世に存在しなかったモーターという語を使ったノストラダムスは、今日の機械文明を見通していた」というのであれば嘘と言い切れるかもしれないが、そうでなければ客観的には勘違いあるいは見解の相違と見ておくのが無難である。

ちなみに1555年版『予言集』第2巻46番にでてくるモトゥールの綴りはmouteurであって、フレデリック・ゴドフロワの辞典第5巻を見たが載っていない。モトゥールの正書法がmoteurに代わったのが1568年版予言集A版あたりでオリジナルに近いとされるX版ではmouteurのままであった。moteurであれば12-14世紀の詩語が含まれた「Dictionnaire historique de l'ancien langage Francois」第七巻432頁でも「動きを与えてくれるもの」という語義を確認することができる。そのためLe grand mouteur は「巨大なモーター」ではなく「大いなる原動力」(ピエール・ブランダムール校訂/高田勇・伊藤進編訳、『ノストラダムス 予言集』1999年、163頁 または、スチューワート・ロッブ/小泉源太郎訳、『オカルト大予言』1974年、56頁)と読むのが妥当である。ではモトゥールとは具体的に何を意味しているだろうか。

リトレの辞書第3巻641頁によると、「哲学者たちは知っていながら崇拝していないが、神は第一の原因で第一のモトゥールの上に無限である」。これはグノーシス主義の影響を受けているトリテミウスの『De septem secundeis』(直訳すると『七つの第二原因について』、神に従って惑星が張り付いた球体を動かす七つの知性)のトリテミウス周期の概念に近いと思われる。同書の最後の部分にこう書かれている。「第20期は、天地創造6732年の4ヶ月目、すなわちキリスト紀元1525年6月4日に、月の天使ガブリエルが再び世界の方向を司ることになる。ガブリエルが世界を治めるのは、天地創造7086年の8ヶ月目、つまり主の年1879年までの354年4ヶ月間である。

これを参照したリシャール・ルーサの著作にある「月がその通常の運行(354年4ヵ月)を完成するため7086年8ヵ月まで支配を握り、その後太陽が支配を握る」を読んだノストラダムスが、惑星天を動かす原動力としてモトゥールという言葉を用いたのではないかと思う。「セザールへの序文」のなかで「今(1555年当時)、我々は永遠なる神の全能のおかげで月に導かれている、月がその全ての周期を完了してしまう前に、太陽が来るだろう、次いで土星が来るだろう」とある。詩百篇1-48には「月の支配の20年が過ぎて」とあるのでノストラダムスが1525年を月の支配の始まりとみていたのは間違いない。ノストラダムスの生きた時代背景を考慮することでモトゥールという謎と思われる詩句も理解できるようになるのだ。

再評価をめぐる雑感について2020/11/25 21:16

本ブログで久しぶりに記事を投稿したところ早速sumaruさんのノストラダムスの大事典 編集雑記で丁寧なコメントをいただいた。まずは、本のタイトル『超能力事件 クロニクル』や『UFO事件 クロニクル』の表記を間違えてしまったことをお詫びします。下書きのメモ帳のタイトルはクロニクルになっているのでちゃんと認識していたはずだが手が滑ったとしかいようがない・・・

再評価をめぐる雑感のなかで「英語圏・仏語圏では」という記述についての背景を説明されている。そもそも、これが文章の「てにをは」レベルの話であるのは十分承知している。ノストラダムスが英語圏・仏語圏ではルネサンス期文化人として再評価されつつある」というのも少し偏った見方ではないだろうか。と書いたのは「では」という言葉に引っ掛かったためだ。読み手からすると他の言語圏ではそういう評価がまったく行われていないとも読めてしまう。これが読者に対するミスリーディングにつながるのではないかと気になったのだ。sumaruさんは「ただ、私の記述は、あくまでも「その後がほぼ続かなかった」ことへの懸念から出たものです(「日本で例えば『モンスト』キャラの元ネタ等という形でしか顧みられなくなっていくのだとすれば」)。」とも述べている。英語圏・仏語圏でも相変わらず予言解釈本は出版されており、英語圏・仏語圏のすべてのノストラダムス本がルネサンス期文化人として評価しているわけでもないので「続いている」かといえばそういうわけでもない。

言うまでもないが、sumaruさんの著書に対して「他の国にも触れて研究者の名前を出せ」とか「重版のときに修正しろ」とか要求する意図は毛頭ない。その他にも良質な研究書あるよ、という一例でグルーバーやカールステット、ペンゼンスキーを挙げたに過ぎない。私見では現在最良のノストラダムスの研究史を概観したもので、Nostradamus The Prophecies, Penguin Books, 2012 のなかのステファン・ガーソンによる「さらなるリーディングのための提案」(XIX-XXII)がある。sumaruさんのいうようにそのほとんどが仏語・英語文献であることに異論があるはずもない。ただ、そのなかにグルーバーやカールステットも含まれている。もちろんガーソンにしても日本語やロシア語の文献は読み込んでいないだろうからここには出てこない。ただ、自分がフォローアップしていない言語のものは中身を検討できないから研究書として扱わないというのはどうなのかと疑問に感じる。そうであるならば「自分の研究範囲である英語圏・仏語圏では」というように書いておいたほうが誤解がなく、わかりやすいとは思う。

ロシアのペンゼンスキーはノストラダムスをルネサンス期のユマニストと見なして様々なテーマで豊富な文献を引用して予言を紹介している。2008年に出版されたНострадамус(ノストラダムス)は偉人の伝記シリーズの610番にあたり有益な啓蒙書を出版している。この本はざっと目を通したが良書と感じた。日本で言えば講談社選書メチエのような感じだろうか。ペンゼンスキーの見方は懐疑派でもなく信奉派でもない中立派でルネサンスという時代背景を重視しており、わりと自分のスタンスに近いと感じる。ノストラダムスの伝記も学術的なもので参考になるところが多い。ペンゼンスキーは2003年にНострадамус. Миф и реальность(ノストラダムス、虚像と現実)とМиф о Нострадамусе (ノストラダムスの虚像)、2010年にはМишель Нострадамус: Эпоха великого прорицателя(ミシェル・ノストラダムス、大予言者の時代)、2016年はМишель Нострадамус. Центурии : книга пророчеств(ミシェル・ノストラダムス、サンチュリ、予言書)等の研究書を出版している。2008年以外の本は未見であるが、どれも重厚な本で図版も豊富なようなのでいずれは入手しておきたいと思っている。

超能力事件クロニカル2020/11/21 23:45

PCを新しく買い換えての初めての投稿である。アクセス履歴を見るとまったく更新がないにもかかわらず何人か訪れてくれているようで申し訳なく思う。さてノストラダムスの大事典 編集雑記によると、このたび『昭和・平成オカルト研究読本』が増刷されたという。どの記事も調査が丹念に行き届いており、オカルト本ファンから見ても情報が満載で初版が売り切れるほど人気があったというのもよくわかる。増刷の際に一部修正されたところがあるというから誤記などきちんと訂正する姿勢には好感が持てる。ノストラダムスに関してはsumaruさんの書いたなかで気になったところをこのブログに書いたことがあったのだが、今回それを参考にして修正されたというのは驚いてもいるし、とても光栄なことと感じる。最近はテレワークで本屋に行く機会もめっきり少なくなったので、増刷の版がすでに店頭に出ているのかわからないが見かけたら購入しておこうと思う。

最近、やはりsumaruさんが「ノストラダムス」の項を執筆した『超能力事件クロニカル』を読んだ。ASIOSは以前も似たような体裁で『UFO事件クロニカル』を出版している。どちらも子供のころに見たり聞いたりした話が満載で懐かしさを覚える。さらにその構成が当時の状況の概要とその後の展開についても綿密な調査がされているのでモヤモヤしていたものが解消されて読後感がすっきりする。子供のころはそれこそメディアリテラシーなるものはなかったので玉石混合の超能力に関する情報を雑誌やテレビで見て信じていたものだった。『超能力事件クロニカル』もこれまで見聞きしたことのある超能力ネタが実はどのようなカラクリであったかを余すところなく描き出している。

超能力者のなかに、いわゆる予言者といわれる人物を含めているのは少々意外な感じがする。確かにノストラダムスなんかも未来の出来事をバンバン当てる超能力者と紹介する本もないではないが、私見ではこのカテゴリーにはちょっと当てはまらないのではないか。sumaruさんの執筆したノストラダムスの章を見ると、冒頭にゲームのキャラクターの話が置かれている。昔ながらのノストラダムスファンではあるが、ゲームや漫画についてはほとんどフォローはしていない。が、ノストラダムスと聞いていまの若い人が本当にこのゲームを思い浮かべるのか訝しい。ただ、例の1999年からすでに21年もた経ってしまった現在ではそういうふうになってしまうのも無理はない。

内容については特に間違い探しをしようとも思わないのだが、新しい情報を盛り込もうとして少々突っ込み不足もいくつか見受けられる。例えば、ノストラダムスの学生時代について186頁では「フランスでは、この時期の足取りを霊媒師から聞いた話で再構成した者もいるが、・・・」とある。読者からするとそれって誰がどんな話をしているのだろうかと興味が湧く部分でもあるのだが、そこをスルーはいささかフラストレーションになる。本来は「1970年代の超能力事件」の章に置かれているのだから話の中心は五島勉の『ノストラダムスの大予言』でなければならない。それでなければエドガー・ケイシーが「1940年代以前の超能力事件」におかれているように16世紀の超能力事件としなければならない。そうした意味でもノストラダムスの本人の伝記の虚実というよりは五島勉が1999年について最終的にどう語っていたかという部分は外せなかったのではないかと思う。

最後の部分の「ノストラダムスが英語圏・仏語圏ではルネサンス期文化人として再評価されつつある」というのも少し偏った見方ではないだろうか。ドイツのエルマール・グルーバー、スウェーデンのアンナ・カールステットやロシアのアレクセイ・ペンゼンスキー、そして日本の岩波書店の2書などいろいろな国でルネサンス人として評価されつつある。ノストラダムスが『モンスト』のキャラでしか顧みられないのが本当のことで、そこに現在の日本におけるノストラダムスを収斂するというのは、ノストラダムスのオールドファンとしては些か寂しさを感じるところではある。

五島勉氏の訃報2020/07/23 17:55

1973年晩秋、公害被害やオイルショックなど終末ブームのさなかに祥伝社より一冊の新書が出版された。五島勉著『ノストラダムスの大予言 迫りくる1999年7の月、人類滅亡の日』である。ルポライターのテイストで書かれたセンセーショナルな予言解釈本はあっという間にベストセラーに躍り出た。筆者がまだ小学生だったころの話である。その伝説の人、五島勉氏がこの世を去ったというニュースがひっそりと流れた。すでにノストラダムスの大事典 編集雑記でも触れられているし、インターネット上のニュースにも配信された。まず取材元の文春オンラインで発信され、その後、読売新聞、朝日新聞、日本経済新聞、共同通信社などのウェブサイトにも追って報じられた。

昨日発売された『週刊文春』2020.7.30号には「「ノストラダムスの大予言」五島勉が死去していた」という1頁の記事が掲載されている。2018年に文春オンラインで発表された記事と夫人へのインタビューに基づいて構成されたものだ。それによると亡くなられたのが2020年6月16日、享年90歳。記事を読むと、五島氏は夫人を連れ添って1987年頃フランス旅行をしたらしい。その際にサロン・ド・プロヴァンスにあるノストラダムスの墓参りもしたとのこと。五島氏はノストラダムスものでベストセラーを連発したことから一度はご本人に挨拶をと思ったのかもしれない。とにかくこの本の登場により日本のオカルト業界に予言解釈本という一ジャンルを確立したのは間違いない。

筆者自身もこの本によりノストラダムスにどっぷりつかってしまい人生を変えたといえるだろう。いまでも手元には海外文献を含め大量のノストラダムス本がある。子どもの頃、五島氏の本が出る前からノストラダムスの名前は知っていたような気がする。当時は空飛ぶ円盤のブームで、黒沼健氏による解釈、1999年の予言は宇宙人の地球攻撃というのをアレンジしたものが少年雑誌に紹介された。そのときはあくまでも空飛ぶ円盤メインであって、すごい予言者がいたといってもピンとは来なかった。いまから見るとSF的でメルヘンチックな物語であった。ただ『ウルトラセブン』のような地球外からの侵略者といったテーマのテレビ番組もあったからそれほど突飛にも見えなかった。

そこに『ノストラダムスの大予言』が発売され人びとは怖いもの見たさに手に取ってむさぼり読んだ。こちらは26年後の近未来に妙に生々しいリアルな恐怖感をもたらすものだった。筆者が最初に読んだ本は母親が近所のオジサンから借りたもので回し読みしていたものだ。おりしも小松左京の『日本沈没』がベストセラーとなり、子供向け漫画でも楳図かずおの『漂流教室』やジョージ秋山の『ザ・ムーン』などがヒットしていた。子どもながらに受容する下地はできあがっていた。ただただ驚きの目をもって繰り返し読んだ記憶がある。五島氏はその後も『ノストラダムスの大予言』シリーズを執筆し続け1998年まで10巻の本を世に送りだした。そしていつしか肩書も日本でもっとも権威のあるノストラダムス研究家ということになった。

大学生になってからは洋書を取り寄せ、英語の解説本(エドガー・レオニの『ノストラダムスと彼の予言』)を読んで五島氏が紹介したノストラダムス像がいかに創作にまみれゆがんだものであったかを知った。そうした付焼き刃の知識を持って五島氏にいろいろと聞いてみたいという欲求にかられたこともあったが残念ながら実現することはなかった。そのとき是非とも聞きたかったのは『大予言』初巻に見られる数々の予言エピソードや11巻、12巻の断片などの偽書誌情報をどのようにして発想したのかという点だった。これまで五島氏はノストラダムスについて数々のインタビューを受け、雑誌などに多くの記事を書いてきたがこれについて詳細を語ることはなかった。

唯一2012年に出版された飛鳥昭雄氏との対談本『予言・預言対談 飛鳥昭雄×五島勉―ノストラダムスの正体と黙示録の真実』の中で「ブロワ城の問答」には正式な資料はなくアメリカ人の研究者から聞いた話とネタ元に触れたこともあったがその他についてソースを明かすことはしていない。もちろん五島氏が1カ月の執筆のなかで頭の中でイメージを膨らませて創作したことは違いない。しかしそのプロセスを少しでも語ってもらえたらと残念で仕方がない。とはいえ五島氏の本はどれも読みやすく予言エンターテイメントとして多くのファンがいて筆者もその一人だ。ノストラダムス研究という面からは五島氏の本は突っ込みどころが満載でそれも一つの楽しみ方だった。問題の年1999年を過ぎても五島氏は『ノストラダムスの大予言』の著者として忘れ去られることはなかった。

最近では『ムー』2019年8月号(No.465)に特別寄稿「あるノストラダムス研究者の最終コメント」を書いていた。また紙媒体のメディアの登場ということであれば「昭和40年男 総集編」6月号増刊で初見健一氏のインタビュー記事が最後のものと思われる。昨年末からの新型コロナウィルス感染症の猛威が日本のみならず世界的に蔓延し収束の兆しが見えないままである。世界中で社会構造や生活様式も変わってしまった。偶然にも今年の夏『日本沈没2020』が公開された。『週刊文春』の記事のなかに夫人のコメントとして五島氏は亡くなる前に『日本沈没みたいになりかねないね』と話していたという。五島氏の逝去は、世界が予測不能な激動の時代を迎え一時代に終わりを告げたことを象徴するニュースといえるかもしれない。

謹んでご冥福をお祈りします。