エクス・アン・プロヴァンスにおけるペスト治療 その3 ― 2019/08/16 01:39
1546年のエクス・アン・プロヴァンスにおけるノストラダムスの実在を裏付ける文書として、市の出納係Paul Bonnin(ポール・ボナン)による1546年6月の証明書が残っている。市の会計簿と当時ノストラダムスに支払われた報酬の記録が保管されている。プロヴァンス・イストリック(画像参照)に掲載されたウージェヌ・レーの論文「ミシェル・ド・ノートルダムの書簡の断片の概要、続編」(1961年7月)217頁によると「エクス・アン・プロヴァンス市町村文書館」CC 460, f.23に次のような記載が残っている。
"M[aitr]e Micheou de Nostredame, dix écus d'or sol pour son entrée dans la convention faicte comme appert plus a plain au mandement et acquit cy produits, cy XXXVII fs [florins] VI s [sous]."
ミシェル・ド・ノートルダム師、ソル金貨の10エキュ、発注書に明らかにされたこれらの成果を得るための参入協定に対して。フローリン貨37枚。スー貨6枚。(筆者訳)
ミシェル・ド・ノートルダム師、ソル金貨の10エキュ、発注書に明らかにされたこれらの成果を得るための参入協定に対して。フローリン貨37枚。スー貨6枚。(筆者訳)
時期的なところから判断すると、エクスでペストが発生した直後にノストラダムスが「エクサン・プロヴァンスの町の役所に雇われて住民の治療にあたった」(『ノストラダムスの万能薬』60頁)ことになる。『化粧品とジャム論』の原文は以下の通り。
je seus esleu & stipendie de la cite d'Aix en Prouence, ou par le senat & peuple je sus mis pour la conseruation de la cite, ou la peste estoir tant grande, & tant espouuentable
私はエクスアンプロヴァンスの町あるいは議会や人びとに選ばれ雇われた。私はペストで汚染されて目を覆うばかりのその町の救助に努めた。(筆者訳)
ノストラダムス自身の言葉とはいえ、当時ペスト治療の名医としてすでに評判が高かったことを示している。1544年5月、マルセイユで先輩医師ルイ・セールのもと疫病と治療を研究しながら実践を積んでいた。1545年には弟のジャン・ド・ノートルダムがエクス・アン・プロヴァンスで法律家になっている。『化粧品とジャム論』(1555)の第二部にはエクスの高等法院検事(procureur)であるジャンに宛てた献辞が載っている。この要請にジャンが関わっていたという想定はそれほど突拍子もないとはいえない。
1546年6月の証明書はノストラダムスが前金で契約したことを示している。医者であってもいつペストに感染するかわからない危険と隣り合わせで現地に入ることを考えれば当然の要求といえる。これはいったいどの程度の報酬だったのであろうか。貨幣の呼び名は同じでも時代によってその価値は変わってくる。参考までにノストラダムスの遺言書に記された財産は3444エキュと10スー。またアダン・ド・クラポンヌが運河の灌漑工事のために調達した資金が8000エキュであるとされる。
240ドゥニエ=20ソル(スー)=1リーブル(フラン)とする。仮に1ドゥニエ=500円とすれば、10エキュ=240×500×10=120万円、フローリン銀貨を18000円とすると、18000×37=66.6万円、スー銀貨を6000円とすると、6000×6=36000円。合計すると190.2万円となるがこれはあくまで目安に過ぎない。同様に計算すると財産は4億1334万円となり相当莫大な金額となる。ちなみに運河の資金は9億6000万円となりオーダー感としてはそんなものか。
(了)

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