ノストラダムスと日本人 ― 2018/04/03 00:12
鈴木範久著『聖書の日本語 : 翻訳の歴史』を読んだ。聖書の日本語訳についてはノストラダムス雑記帳の「番外編 『真説黙示録の大予言』へのツッコミ」にある加治木氏の聖書の翻訳についての批評から関心を持った。聖書の翻訳は一言で言えないほどその歴史的な背景は深い。「神」という訳語ひとつとってもいろいろな変遷を辿ってきたというのは驚きである。この本ではそれを「中国語訳から明治元訳へ、そして大正改訳から新共同訳まで」丁寧に素人にもわかりやすく解説してくれる。
そのなかで付章の「聖書と日本人」ではこれまで聖書の翻訳に関わってきた日本人11人を実に興味深く紹介している。これをヒントに「ノストラダムスと日本人」というテーマで考えてみた。ノストラダムス予言集の詩百篇の巻数に合わせて12人を挙げるとすれば独断と偏見で次のようになるだろう。著書の影響力やマスメディアへの登場などいずれの方も日本でノストラダムスのことを語る際に外すことのできない面面といえる。ゆくゆくはもう少し詳細にまとめたいと思っている。
1 渡辺一夫
仏文学者。「ある占星師の話」(『ルネサンスの人々』所収、初出は1947年)のなかで日本で初めてノストラダムスの評伝を発表した。旧聞による記述とはいえ学術的なアプローチは後代の研究者に大きな影響を与えた。「ノストラダムスの「魔法鏡」の話」(1974)というエッセイもある。
仏文学者。「ある占星師の話」(『ルネサンスの人々』所収、初出は1947年)のなかで日本で初めてノストラダムスの評伝を発表した。旧聞による記述とはいえ学術的なアプローチは後代の研究者に大きな影響を与えた。「ノストラダムスの「魔法鏡」の話」(1974)というエッセイもある。
2 黒沼健
作家。「七十世紀の大予言」(『謎と怪奇物語』所収、初出は1952年)で海外の信奉者の著作に準拠しオカルト的な予言者としてのノストラダムスにスポットを当てた読み物を発表した。1960年代から1970年代にかけて多くのノストラダムスに関する物語を発表している。
作家。「七十世紀の大予言」(『謎と怪奇物語』所収、初出は1952年)で海外の信奉者の著作に準拠しオカルト的な予言者としてのノストラダムスにスポットを当てた読み物を発表した。1960年代から1970年代にかけて多くのノストラダムスに関する物語を発表している。
3 五島勉
作家。云わずと知れた日本の大予言ブームの元祖。1973年に発売された『ノストラダムスの大予言』は当時の終末ブームに便乗した形でベストセラーとなり、ノストラダムス=人類滅亡予言というポップカルチャーを定着させた。以降シリーズ化され1998年まで10冊を数えるヒット作となった。
作家。云わずと知れた日本の大予言ブームの元祖。1973年に発売された『ノストラダムスの大予言』は当時の終末ブームに便乗した形でベストセラーとなり、ノストラダムス=人類滅亡予言というポップカルチャーを定着させた。以降シリーズ化され1998年まで10冊を数えるヒット作となった。
4 川尻徹
精神科医。独特の推理をもとにヒトラーと予言を結び付けた『滅亡のシナリオ』(1985)はオウム真理教の教祖に大きな影響を与えたとされる。もともとは週刊プレイボーイの企画として連載されたものだが奇想天外な川尻仮説のファンも多かったようでその後も多くの関連本が日の目を見た。
精神科医。独特の推理をもとにヒトラーと予言を結び付けた『滅亡のシナリオ』(1985)はオウム真理教の教祖に大きな影響を与えたとされる。もともとは週刊プレイボーイの企画として連載されたものだが奇想天外な川尻仮説のファンも多かったようでその後も多くの関連本が日の目を見た。
5 竹本忠雄
評論家。筑波大学名誉教授。ルーマニア出身の信奉者ヴライク・イオネスクの翻訳書『ノストラダムスメッセージ』(1991,1993)を刊行した。その後自らの著書としてまとめた『秘伝ノストラダムス・コード 逆転の世界史』(2011)は800頁もの大著であるが自分探しの旅日記のような趣である。
評論家。筑波大学名誉教授。ルーマニア出身の信奉者ヴライク・イオネスクの翻訳書『ノストラダムスメッセージ』(1991,1993)を刊行した。その後自らの著書としてまとめた『秘伝ノストラダムス・コード 逆転の世界史』(2011)は800頁もの大著であるが自分探しの旅日記のような趣である。
6 志水一夫
科学解説家。多くの情報を盛り込んで『ノストラダムスの大予言』の問題点を明らかにした『大予言の嘘―占いからノストラダムスまで その手口と内幕』(1991)はその後に輩出する懐疑者のバイブル的な存在となった。『トンデモ・ノストラダムス解剖学』(1998)に内容の焼き直しが見られる。
科学解説家。多くの情報を盛り込んで『ノストラダムスの大予言』の問題点を明らかにした『大予言の嘘―占いからノストラダムスまで その手口と内幕』(1991)はその後に輩出する懐疑者のバイブル的な存在となった。『トンデモ・ノストラダムス解剖学』(1998)に内容の焼き直しが見られる。
7 山本弘
SF作家。と学会会長という立場から従来の信奉者を面白おかしく批評した『トンデモ ノストラダムス本の世界』(1998)、その続編『トンデモ大予言の後始末』(2000)を出版した。ユーモラスな語り口でノストラダムス研究家研究家としてマスメディアに持てはやされた。
SF作家。と学会会長という立場から従来の信奉者を面白おかしく批評した『トンデモ ノストラダムス本の世界』(1998)、その続編『トンデモ大予言の後始末』(2000)を出版した。ユーモラスな語り口でノストラダムス研究家研究家としてマスメディアに持てはやされた。
8 竹下節子
比較文化史家、評論家。エドガー・ルロワなど本国フランスの手堅い研究書に基づいて書かれた『ノストラダムスの生涯』(1998)は日本における実証的な研究の先駆けとして大いに評価されている。その続編としてエッセイ集『さよならノストラダムス』(1999年)を上梓した。
比較文化史家、評論家。エドガー・ルロワなど本国フランスの手堅い研究書に基づいて書かれた『ノストラダムスの生涯』(1998)は日本における実証的な研究の先駆けとして大いに評価されている。その続編としてエッセイ集『さよならノストラダムス』(1999年)を上梓した。
9 高田勇
仏文学者。明治大学名誉教授。ピエール・ブランダムール校訂本により『ノストラダムス予言集』(1999)の編訳を行った。『ノストラダムスとルネサンス』(2000)には「フランス文学史の中のノストラダムス」、「ノストラダムス物語の生成」といった珠玉の論文が収められている。
仏文学者。明治大学名誉教授。ピエール・ブランダムール校訂本により『ノストラダムス予言集』(1999)の編訳を行った。『ノストラダムスとルネサンス』(2000)には「フランス文学史の中のノストラダムス」、「ノストラダムス物語の生成」といった珠玉の論文が収められている。
10 伊藤進
仏文学者。中京大学教養部教授。高田と共に『ノストラダムス予言集』(1999)の編訳を行った。ドレヴィヨン&ラグランジュ『ノストラダムス:予言の真実』(2004)の日本語版監修を務めた。『ノストラダムス予言集』復刊版(2014)では最近の研究動向を踏まえた後書きを執筆している。
仏文学者。中京大学教養部教授。高田と共に『ノストラダムス予言集』(1999)の編訳を行った。ドレヴィヨン&ラグランジュ『ノストラダムス:予言の真実』(2004)の日本語版監修を務めた。『ノストラダムス予言集』復刊版(2014)では最近の研究動向を踏まえた後書きを執筆している。
11 田窪勇人
サイト「ノストラダムス研究室」(1997~)で貴重なノストラダムス情報を発信してきた。「日本におけるノストラダムス受容史」(『ユリイカ』1999.2月号所収)はノストラダムスブームを語る上で多くの論者に参照された。『ミクロコスモス』第1集に「ノストラダムスの学術研究の動向」が収録されている。
サイト「ノストラダムス研究室」(1997~)で貴重なノストラダムス情報を発信してきた。「日本におけるノストラダムス受容史」(『ユリイカ』1999.2月号所収)はノストラダムスブームを語る上で多くの論者に参照された。『ミクロコスモス』第1集に「ノストラダムスの学術研究の動向」が収録されている。
12 山津寿丸
サイト「ノストラダムス雑記帳」、「ノストラダムスの大事典」で膨大なノストラダムス情報を発信している。関連書やマスメディアのノストラダムスの紹介の際の参考サイトとなっている。共著『検証予言はどこまで当たるのか』(2012)では伝説と比較する形で基本事項を手際よく整理している。
サイト「ノストラダムス雑記帳」、「ノストラダムスの大事典」で膨大なノストラダムス情報を発信している。関連書やマスメディアのノストラダムスの紹介の際の参考サイトとなっている。共著『検証予言はどこまで当たるのか』(2012)では伝説と比較する形で基本事項を手際よく整理している。
フランス詩人デュ・ベレーの手紙 その1 ― 2018/04/04 23:41
ノストラダムスと同時代の人物が予言者をどのように見ていたのだろうか、大いに興味をそそられるテーマといえる。16世紀フランス文学史には必ずといっていいほど登場するジョアシャン・デュ・ベレーもその一人である。ジャン・ドラに師事していたピエール・ド・ロンサールと並ぶプレイヤード派の詩人は1522年生、1560年死去であるからノストラダムスと同時代人といえる。デュ・ベレーの9通の手紙が残されており1883年に出版されたものがGallicaで公開されている。手紙の翻訳は田中總子氏の紀要論文で読むことができる。そのなかにジャン・ド・モレル(1511-1581)宛ての手紙が6通ある。
モレルといえば、ノストラダムスが1555年夏に時の国王アンリ二世からの召喚でパリに赴いたとき、宿泊の際に手元の現金が足りなくなってしまい借金を申し入れた人物である。ノストラダムスがその借金をずっと返済しなかったため催促を行い、それに対してノストラダムスの言い訳とお詫びを返信した手紙(1561年11月30日)が残っている。田中氏の註釈によると、モレルは「アングレームの私生児(メアリ・ステュアートと舅の仏王アンリ二世との子)の養育係。当時の文人の多くと親交があった。後妻アントアネットとともに自宅を詩人や文人の社交の場とした。」
ここから当時モレルがフランス国王に近いポジションにいながら文人や詩人たちへの支援者でもあったことが伺える。1559年10月3日のデュ・ベレーからモレルへの手紙のなかに故国王陛下との記述がある。これはもちろん1559年7月10日に馬上槍試合の悲劇的な事件で崩御したアンリ二世のことである。田中氏は註釈のなかで「ノストラダムスの予言と結びついて有名なアンリ二世の死」と予言との関連について触れている。デュ・ベレーは1559年10月または11月の手紙のなかで唐突にノストラダムスの予言についての言及している。田中氏の翻訳を引用させていただく。
私はノストラダムスの予言を読みましたが、カコー殿も私も貴殿がこれを読んでお笑いになるのに手を貸すなどという過ちは犯しますまい。でもその代わりとして、昨日ある人がくれた二行詩をお目にかけましょう。かの予言の解説として適当なものと思われますので。
我等ハ言葉ヲ与ウル時我等ノ物ヲ与ウルナリ。虚言ハ我等ノ物ナレバ。
マタ我等ハ言葉ヲ与ウル時、我等ノ物ノホカ何物ヲモ与エザルナリ。
マタ我等ハ言葉ヲ与ウル時、我等ノ物ノホカ何物ヲモ与エザルナリ。
貴殿はすでに何度か彼に会っておられるでしょうか、それはわかりませんが、彼は礼儀正しい人だと私には思われます。
田中氏は註釈のなかで「この詩の作者については、ジョデル、ベーズの名が挙がっていたが、ノラックはシャルル・ユタノーヴの作品中に、わずかな語句の違いはあるものの、この詩が存在することを指摘している。(Charles Utenhove, les Allusiones)これについては後ほど触れてみたい。ちょっと不思議に思われるのが、最後の「彼」というのはノストラダムスのことを指しているのだろうか。モレルとの交流を想定したものなのか。なぜ礼儀正しい人と思われるのか、この手紙を読んだだけではよくわからない。念のためフランス語の原文を挙げておく。
"J'ay veu la proffetie de Nostradamus dont nous ne fauldrons, mons(ieu)r Cacault et moy, a vous ayder a rire de ladicte profetie. En recompense de quoy je vous envoye ung distique que l'on me bailla hyer qui me semble assez a propoz pour l'explication de ladicte profetie.
Nostra damus, cum verba damus, nam fallere nostrum est,
Et cum verba damus, nil nisi nostra damus.
Et cum verba damus, nil nisi nostra damus.
Je ne scay si l'aurez veu quelque foys, mais je le trouve bien gentil."
(BnF ms fr 10485, f.187 ; Lettres de Du Bellay, ed. Nolhac, 1883, pp.28-29)
(BnF ms fr 10485, f.187 ; Lettres de Du Bellay, ed. Nolhac, 1883, pp.28-29)
(続く)
フランス詩人デュ・ベレーの手紙 その2 ― 2018/04/07 04:30
衝撃的な国王死去の約3カ月後という時期的なことからも手紙に書かれた「かの予言」というのはアンリ二世崩御に関係する予言を指しているのはないか。予言の好事家たちが国家の大事件をノストラダムス予言集のなかから血眼になって探し当てようとする行為は現代に至るまで変わらない。細かい字句に注意を払うこともなく一部の字句をアナロジー的に当てはめて吹聴するというのは十分想定され得ることである。デュ・ベレーは「かの予言」を詩百篇1-35としているわけではないがほのめかしとも受け取れる。あるいは念頭に置いていた可能性があるとすれば詩百篇3-55あたりだろうか。
1-35には「若き獅子が老いた獅子を制するだろう、戦いの野での一騎打ちにおいて、黄金の籠のなかの両眼を突き刺す、二つの艦隊のうち一方しか残らぬ、そうして酷き死を迎える」とある。この詩は後世にノストラダムスの最も有名な予言として百科事典にまで載るようになった。しかし当時の人から見ても二者の戦闘という漠然としたイメージしか湧いてこないだろう。3-55は「一つの眼がフランスで君臨する年、宮廷はもっとも苛立たしい動揺があるだろう、ブロワの偉人が友を殺す、王国は痛手を負い疑惑は倍増する」と書かれている。この2詩は「両眼」と「ひとつの眼」で表記が異なる。
片目を突き刺されたアンリ二世、偉人Le grand をgrain(穀粒)→l'orge(大麦 )→Gabriel LORGES(ガブリエル・ロルジュ)と致命傷を与えたモンゴメリーの名前が浮かび上がる。当時詩人であったジャン・ド・ヴォゼルがそういった解釈を行い、ノストラダムス自身も暦のなかでそれに言及している。その後この詩の後半部分はアンリ3世によるギーズ公暗殺の事件と解釈されると信奉者の間に一定の支持が得られ定着していった。そのため Le grand をモンゴメリーと読み解く解釈は見向きもされなくなった。前半と後半では明らかに時代が大きく離れているためご都合主義の予言解釈といえる。
息子セザールの著作『プロバンスの歴史と年代記』(1614,1624)のなかで1-35の前半の3行のみを引用し事件と結び付けている。エドガー・レオニは『ノストラダムス、生涯と作品』(1961)でこう記している。「セザールが伝えるところでは、パリ郊外で民衆がノストラダムスの人形を造って焼き、予言者自身も同じように処すべきと教会に訴えた」ソースが同じなのか不明であるが、ミシェル・トゥシャールも「従順なる聴衆は、ノストラダムスの人形を火あぶりにした」と述べている。こうしたことから国王の悲惨な事件とノストラダムスの予言が結びつけられてひと騒動あったのは間違いなさそうである。
それを裏付けるかのように、ロンサールも翌年1560年に予言と国王の死をテーマにした詩を残している。「古代のお告げのように、何年にもわたって我々の運命の大勢を予告している。善や悪は彼の分野ではない、我らの国王も楽しんでいる間に死んでしまった」(『ノストラダムスの生涯』115頁)ここからは推論だが、アンリ二世の事故死のあとでノストラダムス予言集を紐解いた誰かがぱっと見で詩百篇1-35を予言的中として当てはめたのではなかったか。しかし、事件と詩文で完全なディテールが一致していないのは明らかである。百詩篇3-55については単にヴォゼルによる後知恵に過ぎない。
そのため知識人のなかでは取るに足らない予言解釈と受け取られ1-35との結びつけが公の文書に残らなかった。ノストラダムスが国王の死を不吉な予言で的中させたという流言飛語が当時飛び交っていたのだろう。デュ・ベレーも予言集の当該詩を実際に読んでみたがこんなばかばかしい予言と一笑に付していたと思われる。こうした風潮を踏まえて4行目を含めた整合性のある解釈に到達できなかったシャヴィニーはあえて自著『フランスのヤヌス、第一の顔』(1594年)のなかに取り込まなかった。J.H.ブレナンは『ノストラダムス未来のビジョン』(1992年)のなかでこう記している。
Word quickly began to circulate that the 'old lion' was King Henri II, who sometimes used a lion emblem on his shield. Before long England's Ambassador Throgmorton was writing to alert Queen Elizabeth I of speculation about the prophecy at the French Court.
この「老いた獅子」はアンリ二世のことをさしているといううわさがあっというまに広まった。王はときどき、楯に獅子の紋章を用いていたからである。それからほどなくして、イングランド大使スログモートンはフランス王室にまつわる予言について注意をうながす手紙をエリザベス一世に送っている。(小川謙治訳)
この「老いた獅子」はアンリ二世のことをさしているといううわさがあっというまに広まった。王はときどき、楯に獅子の紋章を用いていたからである。それからほどなくして、イングランド大使スログモートンはフランス王室にまつわる予言について注意をうながす手紙をエリザベス一世に送っている。(小川謙治訳)
ニコラス・スロックモートン(スロッグモートン)卿 (1515/16?-1571)は、エリザベス1世に登用され1559年5月から1564年4月までフランス大使であった。アンリ二世の事故が起こった1559年7月にはフランス宮廷のすぐ近くで事の推移を見ていたのは確実だろう。1863年に出版されたCalendar of State Papers 1558-1559 第1巻の1559年8月27日セシルへの書簡の追伸には「愚かなノストラダムスが船乗りたちを大いなる恐怖に落とした」とあるが仏国王の予言に言及したものは見当たらない。ただしノストラダムスという名前が当時国内外を含めて独り歩きをしていったのは間違いなさそうである。
(続く)
フランス詩人デュ・ベレーの手紙 その3 ― 2018/04/10 00:16
デュ・ベレーの手紙にはノストラダムスの名前をもじった有名なラテン語の二行連句が引用されている。注目すべきはノストラダムスの生前にすでに発表されていたことであろう。実際に活字になったのは1568年のCharles Utenhove (1536-1600)のXenia seu Allusionum(提示または暗示、Google Booksで閲覧可能)のなかでほぼ近いテクストが見られる。その比較をしつつ詩句の変遷を追ってみたい。
デュ・ベレーの手紙の二行連句
Nostra damus, cum verba damus, nam fallere nostrum est,
Et cum verba damus, nil nisi nostra damus.
Nostra damus, cum verba damus, nam fallere nostrum est,
Et cum verba damus, nil nisi nostra damus.
シャルル・ユタノーヴの二行連句
C. V.
Mich.Nostradamus.
Nostra damus, cum verba damus, qua fallere nostrum est,
Et cùm verba damus, nil nisi nostra-damus.
C. V.
Mich.Nostradamus.
Nostra damus, cum verba damus, qua fallere nostrum est,
Et cùm verba damus, nil nisi nostra-damus.
C. V.というイニシャルが添えられているがユタノーヴ以外の作者を暗示しているだろうか。
その後『ラ・クロワ・デュ・メーヌ殿の蔵書 第1巻』(パリ、1584年)でも取り上げられている。ここがおそらく後代の関連書のソースとなった記述といえる。
Nostra damus, cum verba damus, nam fallere nostrum est :
Et cum verba damus, nil nisi Nostra damus.
我らが言葉を与えるとき、我らは自らのものを与えるのだ、欺くのが我らの性質なのだから。
ゆえに我らが言葉を与えるとき、自らにないものは与えられないのだ(sumaru訳)
その後『ラ・クロワ・デュ・メーヌ殿の蔵書 第1巻』(パリ、1584年)でも取り上げられている。ここがおそらく後代の関連書のソースとなった記述といえる。
Nostra damus, cum verba damus, nam fallere nostrum est :
Et cum verba damus, nil nisi Nostra damus.
我らが言葉を与えるとき、我らは自らのものを与えるのだ、欺くのが我らの性質なのだから。
ゆえに我らが言葉を与えるとき、自らにないものは与えられないのだ(sumaru訳)
このなかでデュ・メーヌは作者をパリのエチエンヌ・ジョデルと示している。この句が一部の人々からは褒め称えられたと記している。復刻された1772年版の注釈のなかで「それに反して私はシャルル・ユタノーヴの「暗示」の書物の108頁に見出した。またパタンはアンドレ・ファルコネへの1655年8月30日の手紙で伝えている。彼はフレデリック・スパンエイムが dubiis Evangelicisのなかでそれをベズとして引用していると。そのためか、日本での初出と見られるカート・セリグマンの『魔法 その歴史と正体』(1961)では作者に関してこういった形での紹介となっている。
ある詩人、たぶんベズかジョデルは、この予言者の名前をもじって辛辣な二行連句を書いた。
Nostra damus cum falsa damus, nam fallere nostrum est,
Sed cum falsa damus, nil nisi nostra damus.
(大意は、「われわれは嘘をつくことで、自分のものを与える、そうするのが仕事だから。だが嘘を分け与えてしまうと、あとにはこの自分自身には与えるものが何もなくなる」)
Nostra damus cum falsa damus, nam fallere nostrum est,
Sed cum falsa damus, nil nisi nostra damus.
(大意は、「われわれは嘘をつくことで、自分のものを与える、そうするのが仕事だから。だが嘘を分け与えてしまうと、あとにはこの自分自身には与えるものが何もなくなる」)
1656年の解説書『ミシェル・ノストラダムス師の真の四行詩集の解明』49頁にはこの二行連句を模倣したレプリカが載っており、ジャン・ムーラとポール・ルーヴェの『ノストラダムスの伝記』(1930)173頁に引用されている。ピーター・ラメジャラーも『ノストラダムス・百科事典』(1997)119頁で言及している。下記の和訳はいずれもピーター・ラメジャラー『ノストラダムス百科全書』252頁による。
ジョデルの二行連句
Nostra damus cum falsa damus, nam fallere nostrum est,
Cum falsa damus, nil nisi nostra damus.
我々は嘘をつくとき自分の嘘をつく、間違うのは我らだからである:
そして嘘をつくとき自分の嘘をつき、自分の嘘しか持ち合わせない。
Nostra damus cum falsa damus, nam fallere nostrum est,
Cum falsa damus, nil nisi nostra damus.
我々は嘘をつくとき自分の嘘をつく、間違うのは我らだからである:
そして嘘をつくとき自分の嘘をつき、自分の嘘しか持ち合わせない。
ノストラダムスの友人の二行連句
Vera damus cum verba damus quae Nostradamus dat,
Sed cum nostra damus, nil nisi falsa damus.
ノストラダムスが語った言葉を我らが喋るとき我らが怒りをぶちまけるというのは真実である:
なぜなら、我らが選ぶ言葉はなんの役にも立たず、嘘であるから、我らを救いえないからである。
Vera damus cum verba damus quae Nostradamus dat,
Sed cum nostra damus, nil nisi falsa damus.
ノストラダムスが語った言葉を我らが喋るとき我らが怒りをぶちまけるというのは真実である:
なぜなら、我らが選ぶ言葉はなんの役にも立たず、嘘であるから、我らを救いえないからである。
ラメジャラーはノストラダムスの友人を秘書であったシャヴィニ―と推定している。さらに次の変形バージョンを「この予言者自身によって示唆されたものであるということは、ありえるだろうか」とコメントしている。
Nostra damus cum verba damus, quae Nostradamus dat,
Nam quaecumque dedit nil nisi vera dat.
ノストラダムスが喋ったように我らが言葉を喋るとき、我らは自分の言葉をぶちまけるのである:
なぜなら、一行ごとに、真実そのものがそれ以上どうしようもないほど、その言葉が正しくみごとだからである。
Nostra damus cum verba damus, quae Nostradamus dat,
Nam quaecumque dedit nil nisi vera dat.
ノストラダムスが喋ったように我らが言葉を喋るとき、我らは自分の言葉をぶちまけるのである:
なぜなら、一行ごとに、真実そのものがそれ以上どうしようもないほど、その言葉が正しくみごとだからである。
こうしたいろいろなバリエーションがあるというのは興味深い。もちろん当時の仏詩人にはノストラダムスの予言詩に対して厳しい評価をするものもいた。詩人は予言者という旗印のもとにノストラダムスと同じカテゴリーで見られるのに抵抗があったのだろう。例外として、ロンサールはノストラダムスに対する賛美の詩を奏でているし、シャヴィニ―の師でもあったジャン・ドラは自ら四行詩を解釈したりもしていた。(『1570年7月21日パリで誕生したアンドロジン』1570年)
国王崩御にまつわるノストラダムスの予言に対する社会不安を和らげるためにプレヤード派の詩人がノストラダムスの名前をもじった洒落た二行連句を作成したのだろう。以後様々なところで引用、改変、翻訳されたのはノストラダムスのビッグネームが時代を通じてずっと続いてきた所以である。
(了)
「七十世紀の大予言」の初出 ― 2018/04/11 23:05
これも書こう書こうと思いつつも随分と時間が経ってしまった。黒沼健氏の「七十世紀の大予言」については以前にこのブログで紹介したことがある。(黒沼健氏のノストラダムス物語)国会図書館で『雑誌記事索引集成データベース ざっさくプラス(皓星社)』を利用して「黒沼健」と入力して検索をかけてみると記事の年代と点数がグラフ化されて、どの時代に最も雑誌に精力的に執筆していたのか大雑把な傾向をつかむことができる。初期と見られるのは1931年5月の作品で当時29歳、雑誌『探偵』に海外の推理小説を翻訳した作品がずらりと並んでいる。
グラフによると1939年頃と1953年頃にピークの山が見られる。当初コラムや小説を発表していたが検索結果の172番目に『探偵実話』に掲載された「七十世紀の大予言」が目に留まる。国会図書館には該当する『探偵実話』の号の蔵書はないが、池袋駅から15分ほど歩いた光文社ビルの一角にある「ミステリー文学資料館」で『探偵実話』のバックナンバーを閲覧することができる。それは『探偵実話』1952年(昭和27年)3月特大号で、表紙はいかにも昭和の時代の風情が漂っている。発行所は「株式会社 世界社」で価格は九十円とある。当時は創刊してから2年経っている。
全部読み切りと表紙にあるが実際は連載物もある。当時は他にも似たような探偵話のミステリー雑誌が数多く出版されていたようでこの分野は人気があったのだろう。目次を見ると、三大特別実話読物のなかに「実録秘史 七十世紀の大予言 黒沼健」がエントリされている。他のふたつは「怪事件回顧録 怪教大本検挙の真相 元警視総監 藤沼庄平」と「名刑事苦心譚 妖婦菊江の物語 三角寛」といかにも読者の興味を引くように工夫されたタイトルになっている。メインは探偵小説で新人傑作選が4作、新掲載連続短編が6作、大長編怪奇読み切りが1作、掲載されている。
それまでの黒沼氏の作品とは少々毛並みが違うと感じる。この作品を書くにあたって数冊の海外文献を参照したのは確実で、相当力を入れて取り組んだと思われる。最終的にこの作品は5年後の1957年12月に出版された単行本『謎と怪奇物語』に収録された。雑誌版と単行本版と比較してみると、まず雑誌版の冒頭に書かれているウェブスター大辞典の記述が単行本版では省かれている。本文には目立った変更はない。ピオッブの本から転載した図2つがノストラデムスの描いた奇妙な図形として載っているのも変わりがないが単行本版にある枠のデコレーションは見られない。
細かいところでは本来「っ」となる表記が雑誌版では「つ」、同様に「ょ」が「よ」となっている。また雑誌版ではふりかなを多く振っている傾向があり、使用された漢字も旧式の表記のがところどころ見られる。雑誌版では本文中は一貫して予言を豫言と表記されている。目次の表記は予言となっているのはなぜなのだろう。また雑誌版と単行本版で決定的に異なるのは挿絵である。雑誌版の挿絵は3つ挿入されている。「星を見ながら書斎で予言を執筆するノストラダムス」(下の画像参照)「国王の家族に拝謁するノストラダムス」「患者を診察するノストラダムス」
単行本版では冒頭に「書斎で予言を執筆しながら眠り込むノストラダムス」が載っている。『探偵実話』では目次を見ると小説については挿絵を描いた人の名前がクレジットされているが三大特別実話読物にはついては特に表記されていない。ノストラダムスの肖像に関する資料が皆無だった時代に黒沼氏の文章からイメージを膨らませて描いたものだろう。予言者のトレードマークともいえるあごひげは描かれている。改めて読み返してみると、この作品は黒沼氏にとって推理小説から謎と神秘と怪異を追求するノンフィクション・ミステリーへ移行する大きな転機になったのではないかと思う。
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