17世紀の学術雑誌に見るノストラダムス ― 2016/12/14 23:39
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k565402.r=Journal%20des%20s%C3%A7avans%20nostradamus?rk=21459;2
ノストラダムスに関する情報は、今やインターネットを通じて過去に遡って入手することが可能になった。気になるものが見つかったらPCにデータを保存しているのだが、忘れてしまったものも少なくない。たまたまリファレンスとして17世紀の雑誌の記事のpdfが見つかった。Gallicaからダウンロードしたものだ。1665年にパリで創刊された『ジュルナル・デ・サバン』(Journal des sçavans)はヨーロッパで初めて出版された学術的な雑誌である。その内容は有名人の死亡記事、教会史、法的な事例も含まれていた。創刊号は1665年1月5日に12頁の四つ折りのパンフレットとして刊行された。
第15巻、1693年4月20号(上記写真)にノストラダムスに関する記事が見られる。170頁に1693年にパリのジャック・モレルより出版されたギノーのノストラダムス研究書"La concordance des propheties de Nostradamus ..."の見出しが載っている。当時はまぎれもなく印刷されたばっかりの新刊書で世間からも注目されたのだろう。書名に続いてノストラダムスの簡潔な伝記が載っている。読み進めていくと伝統的な伝記の途中で「ミシェルというの名の長男は占星術論を出版した。次男がセザールでプロヴァンスの歴史の著者、三男がCapucinカピュサン」とある。
これはギノーの著書の11頁の記述をそのまま引用したものだ。ギノーが何をソースにこういった記述を行ったのか不思議でならない。ギノーの本はその後1709年、1712年にも再版されており、当時はそれなりに人気があったことは確かなようである。この記事によると、多くの論者がノストラダムスに反論している。フロリモン・ド・ルモン、スポンド、M. ガッファンディらは彼を無知でペテン師として扱っている。ギノー自身は著作の第一部でこうした非難を押し戻している。第二部は1555年から現在までの予言の注釈、第三部ではまだ見ぬ未来についての推測を提示している。
あえてギノーの予言解釈の評価には触れていない。252頁の補遺の部分にもノストラダムスの記述があるが賛否両論の意見があることを紹介している。そうか、この雑誌は学術的な雑誌であった。予言解釈の提灯持ちをすることなどないはずである。
歴史のプロヴァンス誌のノストラダムス論文 ― 2016/12/15 23:23
何の気なしにWikipediaのノストラダムスの記事の参考文献を眺めていたら、Provence Historique(歴史のプロヴァンス誌)に掲載されたユージェヌ・レーのノストラダムス論文にリンクが張られているのに気付いた。試しに" Aperçu d'un fragment de la correspondance de Michel de Nostredame"(ミシェル・ド・ノートルダムの往復書簡の断章の概要)をクリックすると、読み込むのに少々時間はかかったがProvence Historiqueのサイトで公開されているpdfに直リンクされていた。レーやエドガー・ルロワがプロヴァンスの専門誌に発表した論文は貴重な情報を提供してくれるのだが一般の読者にはなかなかアクセスは難しかった。
1950年から2006年のバックナンバーをWebサイト上で無料公開してくれるのは本当にありがたい。ノストラダムス関連でダウンロードできるpdfは以下の6つの論文である。いずれも伝記研究において重要な文献である。
(1) ノストラダムスの曾祖父ジャン・ド・サンレミ、レー(1960年)
(2) ミシェル・ド・ノートルダムの往復書簡の断章の概要、レー(1961年)
(3) 続ミシェル・ド・ノートルダムの往復書簡の断章の概要、レー(1961年)
(4) カルパントラのピエール・ド・ノートルダム、ルロワ(1963年)
(5) ミシェル・ド・ノートルダムの父方の家系、レー(1968年)
(6) ミストラル、セザール・ド・ノートルダムと王女クレマンス、モーロン(1973年)
いま振り返ってみると、1941年のルロワの論文(ノストラダムスの出自)を皮切りに、1960年代というのはノストラダムスの伝記に関する実証的な論文がルロワやレーによって精力的に発表された黄金期であった。それまでの通俗的な伝記のなか伝説にまみれたノストラダムス像を一次資料のアーカイブで実証的に見直したのは画期的なことである。しかし地元の専門誌に発表されたためになかなか入手が困難だった。精力的に膨大な資料を収集して1961年にノストラダムス研究書を刊行した米国のエドガー・レオニにしても1941年のルロワの論文に直接アクセスできていない。
最近ではオンライン書店の古書で流通していればマウスのクリック一つで入手可能である。上の(1)から(4)についてはプロヴァンス・イストリックの該当号が手元にある。ダウンロードできる論文のpdfファイルはOCRでテキスト認識できるため簡単に文章を抽出してGoogle翻訳にかけることもできる。幸いルロワのノストラダムス研究は1972年に一冊の本にまとめられたが個別の論文は地元のマイナーな専門誌に発表されているので未だに参照できていないものもある。他にもこういった形でアクセスできるようになればと切に思う。なんども繰り返すようだが本当に夢のような時代になったものだ。
ピエール・リゴー版ノストラダムス予言集 ― 2016/12/18 01:42
ノストラダムスの大事典の編集雑記のなかで、17世紀の初頭にピエール・リゴーが出版したノストラダムスの予言集のなかで刊行者の表記が三種類あることが紹介されている。ピエールは1568年に予言集の完全版を出版したブノワ・リゴーの長男であり、ブノワの死後、1597年から1602年まで「ブノワ・リゴーの後継者たち」の名の下で出版活動を行っていた。1602年以降はピエール・リゴー名義で1631年に死去するまで出版物を世に送り出していた。予言集の刊行名に(a)PAR PIERRE RIGAVD、(b)Par PIERRE RIGAVD、(c)Chez PIERRE RIGAVD の3種類があるがいずれも刊行年の記載がない。
ブノワも1568年以降断続的に予言集を刊行していたが表紙の出版年を変更しなかったし、1597年の「後継者たち」版の予言集にも刊行年の表記がない。ここからリゴー一族は刊行年の表記に無頓着であったことが伺われるが、後から出版の系譜を探ろうとするのに余計な労力がかかってしまう。それが影響したのかどうか不明であるが、18世紀には表紙に1566年が挿入された予言集が三種類も出版されている。これらは明らかに偽年代版でのちにアナトール・ル・ペルティエの校訂版テクストに取り込まれ、以降予言集の書誌研究に混乱を招いてしまった。
ピエールの予言集に3種類の刊行者の表記があることは1975年のダニエル・リュゾの指摘(原書330-331頁)でつとに知られていたが、(a)、(b)、(c)の表記の違いは何か理由があるのだろうか。試しにブノワ名義の予言集の表紙を見ると、すべてPAR...となっておりブノワ版の名残りが見えるのが(a)のパターンである。また1597年の「後継者たち」の予言集はPar...となっており(b)のパターンである。ピエールの出版物に関してマリオがまとめたリストを見ると、ピエール名義で活動を始めた当初はPAR/Parを用いていたが1605年あたりからChezと表記したものが増えている。
パトリス・ギナールの2008年の論文「ノストラダムス予言集、版本の歴史(1555-1615)」(96頁以降)によれば刊行年が(a)1601?(b)1603?(c)1606?とある。刊行の順番は妥当と思われるが1601年については実際の活動時期とずれているため疑問も残る。リヨン出版界で父親のリゴーは書籍商であって印刷を外の工房へ出していたようであるから(c)の予言集は外の工房で印刷された可能性もあろう。(『ノストラダムスとルネサンス』Ⅱ-3 16世紀出版文化の中のノストラダムス、142-143頁)手元の辞書を引くと、Chezは「~の店で」あるので案外この推理は当たっているかもしれない。
マリオ・グレゴリオのBibliotheque Nostradamusで(c)は標本の保管場所が「B.N.: RES Ye 1784」と特定されているにも関わらず「Located? 」と疑問符付だったのがずっと気になっていたが、現在ではオンラインでコピー請求ができるそうだ。上のChez...の予言集の表紙はギナールの論文よりコピーしたもの。個人的には外の印刷工房に出すことでテクストの校訂が雑になってしまい先代のブノワから引き継いだテクストの品質が低下しているのではないかと予想しているが、今後の大事典の分析が楽しみである。
モザイクについて ― 2016/12/21 23:25
インターネットでノストラダムスとカトリーヌ・ド・メディシスで検索をかけてみたところ、エリィ=シャルル・フラマン Elie-Charles Flamandが自身のWebサイトで公開している『モザイクについて』 PROPOS MOSAÏQUÉ がヒットした。Wikipedia(仏)によると、フラマンは1928年12月25日生まれ、今年2016年5月25日に死去した。シュルレアリスム人名事典を引くと、錬金術に夢中になった詩人と紹介されている。1960年5月にシュルレアリスムから離脱して除名となった後は、詩作品の延長として美術史、錬金術、象徴の歴史に関する記事やエッセイを残した。
『モザイクについて』はそれまで様々な雑誌や印刷物で発表したテクストをまとめた2009年の作品である。そのなかで16世紀フランス王妃カトリーヌ・ド・メディシス周辺の予言に纏わるエピソードが紹介されている。内容的に特に目新しいものはないが、一部のエピソードでそのソースを示しているのが目に留まった。例えば、13頁、1580年にアントワープで印刷された Catalogus imperatorum, regum ac principium, qui artem astrologicam amarunt, ornarunt et exercuerunt, Antwerpiae, 1580『占星術を愛し、称賛し、実践する皇帝、国王、王妃たちのカタログ』を引用している。
Henri Rantzauはこう注意を促している。占星術師たちは国王アンリ二世の妃であるフランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスに対し予言を行っていた。彼女は夫に送られた王冠を破壊するために生まれた、と。(ミシュレ)確かにアンリ二世亡き後に息子3名が次々と国王の座に就くが長くは続かず遂にはヴァロワ家は潰えてしまう。しかしこれは単に後知恵にすぎない。1556年2月5日の出来事。ナポリの占星術師リュク・ゴーリックが行ったアンリ二世の死に関する予言は占星術の価値に対する信念を確固としたものに押し上げた。ブラントームがこの時のやり取りを伝えているのは有名な話である。
1555年に出版されたノストラダムス予言集の百詩篇1巻35番の詩に、トゥルネル離宮の近くの大騎馬試合の事件が予言されていたと王妃が信じたとあるのは特にソースの記載がない。アンリ三世のカウンセラーであったJacques de Thouの著した『1543年から1607年までのその時代のエピソードに関する書物』Historiarum sui temporis libri ab anno 1543 usque ad annum 1607 で歴史家Mezerayの言葉を引用している。太后がサン=ジェルマンの近くで亡くなるだろうという例の予言である。内容的には先に紹介した渡辺一夫氏が示したものと大差はない。
その後、講談社文芸文庫版の「白日夢 カトリーヌ太后の最期とその脚の行方」を入手したところ末尾に1972年9月とあった。岩波文庫の1993年刊の『渡辺一夫評論選 狂気について』に収録されたものは1973年3月なのでどうやらこれの前のバージョンだったようである。初出が1972年4月であるからわりと短期間のなかで推敲し書き換えた跡が見られる。ちなみに講談社文芸文庫版では「IV ノストラダムスの予言」に?マークはまだついていない。岩波文庫版とは異なりアルファベット表記が残っており省略がない。付記は載っているがミイラの脚の写真はカットされているようだ。
『裏切られたノストラダムス』の予言集テクスト ― 2016/12/25 23:20
ノストラダムスの大事典 編集雑記にエリザベート・ベルクールの原書にある予言集のテクストのオリジナルを突き止めたという記事が載っている。ベルクールが1981年に出版した"Nostradamus trahi, suivi du texte original et complet des dix Centuries, edition de 1605"(裏切られたノストラダムス、1605年版の十巻の百詩篇の完全なオリジナルテキストを副えて)にはタイトルにもあるように1605年版と称する予言集のファクシミリが転載されている。本書は284頁のうち184頁がこのファクシミリに充てられている。つまり本の半分以上はコピーされた予言集テクストで頁を埋めていることになる。
日本では、前半100頁分のみ翻訳された本が、リヨン社より『裏切られたノストラダムス』として出版されている。後半部分の転載された1605年版というのが曲者で、これまで一般に入手困難とみられていた貴重なテクストが利用できるということでノストラダムス業界にそれなりの影響を与えた。例えば、ミシェル・デュフレーヌはこのテキストを転記した予言集を出版、それをベースとして辞書をまとめたり、各サンチュリ毎に10冊の重厚な解釈書を出版し、不完全ながら四行詩の校訂や信奉者側の解釈の整理をおこなっている。(デュフレーヌの死後、9巻と10巻はジャン・ギェルノンによる)
またピエール・ブランダムールはこのテクストを1660年頃の刊行と見なして初版本のテクストの校訂比較の対象としていた。当初邦訳を読んだときには「1605年版の『諸世紀』より」とされた予言詩が転載されていたことで、ベルクールの主張に説得力があるように感じたものだ。その後、原書を入手し、すべてのテクストに目を通すと違和感を感じずにはいられなかった。それは単純に活字組のなかに古版本に見られるSの異体字(ロングS)が見られないことだ。Sの異体字がなくなるのは手元で参照できるものではランドリオ出版くらいで18世紀末までの予言集の版本では異体字が用いられていた。
本文のなかで転記されている六行詩集のタイトルもおかしい。古版本ではいずれも"pour les ans courans en ce siecle"(今世紀のいずれかの年に向けて)とあるものが"Pour les Ans courans en ce siecle, commencant en l'Annee 1600"(1600年に始まる今世紀のいずれかの年に向けて)と書き換えられている。これも同じような表記はランドリオ出版くらいである。そもそも1605年版という割にその根拠を示す予言集の表紙が示されていない。引用されている頁の割り付けも不自然さが見られる。原書に転載された部分は1巻~7巻まで33-157頁、8巻~10巻まで177-233頁 となっている。
セザールへの序文の分量を見立てても33頁は合っていない。結局のところ巻頭に伝統的な伝記が挿入されていた。ロベール・ブナズラの本の325頁を見ると、sumaruさんが指摘するように1780年の項にあるサンチュリのエディション108番が見事なまでに頁構成が一致している。そこに原文を添えて文字のかすれ具合から同一の版本であることを確定させたのは長年のモヤモヤがすっきりした感じで拍手喝さいを送りたい。どうしてベルクールは18世紀末の版本を1605年版のオリジナルテクストなんて詐称したのだろうか。
当時フランスではジャン・シャルル・ド・フォンブリュヌのノストラダムス解釈本(邦訳『新釈ノストラダムス』)がブームとなっていて、第三次世界大戦のシナリオとともに人々に1983年パリ破滅の不安をまき散らしていた。(上の画像参照)ベルクールはそれを憂えて批判書を著したという。その本のなかでフォンブリュヌの用いた予言詩のテクストにもケチをつけていたので、自分の手元に正当なテクストがあると主張したかったのだろう。こういった軽い気持ちからの悪ふざけが思いもよらない影響力があったのはノストラダムス研究史における汚点としかいいようがない。
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