モザイクについて ― 2016/12/21 23:25
インターネットでノストラダムスとカトリーヌ・ド・メディシスで検索をかけてみたところ、エリィ=シャルル・フラマン Elie-Charles Flamandが自身のWebサイトで公開している『モザイクについて』 PROPOS MOSAÏQUÉ がヒットした。Wikipedia(仏)によると、フラマンは1928年12月25日生まれ、今年2016年5月25日に死去した。シュルレアリスム人名事典を引くと、錬金術に夢中になった詩人と紹介されている。1960年5月にシュルレアリスムから離脱して除名となった後は、詩作品の延長として美術史、錬金術、象徴の歴史に関する記事やエッセイを残した。
『モザイクについて』はそれまで様々な雑誌や印刷物で発表したテクストをまとめた2009年の作品である。そのなかで16世紀フランス王妃カトリーヌ・ド・メディシス周辺の予言に纏わるエピソードが紹介されている。内容的に特に目新しいものはないが、一部のエピソードでそのソースを示しているのが目に留まった。例えば、13頁、1580年にアントワープで印刷された Catalogus imperatorum, regum ac principium, qui artem astrologicam amarunt, ornarunt et exercuerunt, Antwerpiae, 1580『占星術を愛し、称賛し、実践する皇帝、国王、王妃たちのカタログ』を引用している。
Henri Rantzauはこう注意を促している。占星術師たちは国王アンリ二世の妃であるフランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスに対し予言を行っていた。彼女は夫に送られた王冠を破壊するために生まれた、と。(ミシュレ)確かにアンリ二世亡き後に息子3名が次々と国王の座に就くが長くは続かず遂にはヴァロワ家は潰えてしまう。しかしこれは単に後知恵にすぎない。1556年2月5日の出来事。ナポリの占星術師リュク・ゴーリックが行ったアンリ二世の死に関する予言は占星術の価値に対する信念を確固としたものに押し上げた。ブラントームがこの時のやり取りを伝えているのは有名な話である。
1555年に出版されたノストラダムス予言集の百詩篇1巻35番の詩に、トゥルネル離宮の近くの大騎馬試合の事件が予言されていたと王妃が信じたとあるのは特にソースの記載がない。アンリ三世のカウンセラーであったJacques de Thouの著した『1543年から1607年までのその時代のエピソードに関する書物』Historiarum sui temporis libri ab anno 1543 usque ad annum 1607 で歴史家Mezerayの言葉を引用している。太后がサン=ジェルマンの近くで亡くなるだろうという例の予言である。内容的には先に紹介した渡辺一夫氏が示したものと大差はない。
その後、講談社文芸文庫版の「白日夢 カトリーヌ太后の最期とその脚の行方」を入手したところ末尾に1972年9月とあった。岩波文庫の1993年刊の『渡辺一夫評論選 狂気について』に収録されたものは1973年3月なのでどうやらこれの前のバージョンだったようである。初出が1972年4月であるからわりと短期間のなかで推敲し書き換えた跡が見られる。ちなみに講談社文芸文庫版では「IV ノストラダムスの予言」に?マークはまだついていない。岩波文庫版とは異なりアルファベット表記が残っており省略がない。付記は載っているがミイラの脚の写真はカットされているようだ。
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