ノストラダムスの墓碑と誕生日2016/07/03 22:19

ノストラダムスの大事典に「ノストラダムスの墓」と「ノストラダムスの誕生日」の記事がアップされた。墓碑銘については15年ほど前にノストラダムスサロンにアップしようと書きかけた記事が残っている。そのなかで検証が残っていたのが、今回大事典で問題提起されているノストラダムスの生涯の期間についてである。通説では、ノストラダムスの誕生が1503年12月14日、逝去が1566年7月2日であるから、正確にいうと生涯62歳6ヶ月17日生きたことになる。

しかしながらセザールの引用した碑文のテクストでは「62年6ヶ月10日の生涯」と記されている。どちらが正しいのか、碑文の細かい字句もオリジナルはどうだったのか、ずっと整理がつかないままであった。今回の大事典の記事はその辺の事情について非常に手際よくまとめている。そのなかで見逃していた点として、ジャン・エメ・ド・シャヴィニーの『フランスのヤヌス第一の顔』のラテン語のなかで墓碑銘についてこう書かれている。

Epitaphium sibi tale ipse condidit ad imitationem Liviani maxima ex parte, qud etiamnum hodie Salonae Prouincialium in fano Franciscanorum, in quo is sepultus est, legitur.

Google翻訳を参考に訳してみると、
碑文の大部分についてはリウィウスを模倣しながら彼(ノストラダムス)自身で作成したものである。我々は今日でもサロン・ド・プロヴァンスのフランシスコ会の教会のなかにそれを見ることができる。そこに彼の亡骸が埋葬されている。(碑文は)こう読める。

この部分はこれまであまり重視していなかったというか見落としていた。試しに手元で参照可能な資料に基づいて今回シャヴィニーの著作の当該箇所を調査してみた。
(1) 1594年 『フランスのヤヌス第一の顔 フランス語版』 この部分は上記のラテン語テクスト
(2) 1594年 『フランスのヤヌス第一の顔 ラテン語版』 (1)とテクストは同一
(3) 1596年 『亡きノストラダムスの百詩篇および予測に関するシャヴィニー氏の注釈』アントワーヌ・デュ・ブリュイユ版 この部分はフランス語のテクストだが細かい字句はラテン語テクストと異なる
(4) 1596年 『亡きノストラダムスの百詩篇および予測に関するシャヴィニー氏の注釈』ジル・ロビノー版 (3)のフランス語テクストと同一

この流れで見ると、ラテン語版テクストが先んじて執筆されてそれをフランス語でわかりやすくリライトしたようにも思われる。sumaruさんは判断に迷うとコメントしているが、明らかに碑文の翻案はノストラダムス自身が作成し、それをもとに妻のポンサールが最終的に仕上げたとみる他にない。(シャヴィニーの何らかの介入があった可能性も否定できない)碑文がいつ頃完成したのかは定かではないが、少なくとも当時子供であった息子のセザールが作成した可能性は低いだろう。

となればセザールの引用した「62年6ヶ月10日」こそ誤記あるいはVIIの欠落だったと考えられる。実際の墓碑銘はどうだったのだろうか。おそらく現物を見たであろうラ・クロワ・デュ・メーヌの1584年の証言が重要で、そこには「62年6ヶ月17日」とある。ところが1718年に刊行された『フランスの新しい記述』のサロン・ド・プロヴァンスの紀行文にはコルドリエ派教会の墓の詳細な描写がされているが「62年6ヶ月10日」とある。セザールの著作を参照したからか現物がそうだったのか決め手に欠けるところがある。まだ細かいところで議論はあるにせよ、ひとまず自分自身のなかでは解決としたい。

最後に手元のメモにある碑文のヴァリエントを簡単に整理しておこう。
1594年 シャヴィニーの碑文 D.OPT.M. 17日 アンヌの記載自体が省略されている
1614年 セザールの碑文   D.M 10日 アンヌに「サロンの」が付かない V.Fが省略形
1718年 ピガニョールの碑文 D.M 10日 アンヌに「サロンの」が付く V.Fが省略形
1789年 ムゥーの碑文    D.M 10日 アンヌに「サロンの」が付く V.Fともに省略形ではない
1867年 ペルティエの碑文  D.M 17日 アンヌに「サロンの」が付かない Vのみ省略形
1961年 レオニの写真    D.O.M 17日 アンヌに「サロンの」が付く Vのみ省略形
現在の碑文         D.O.M 17日 アンヌに「サロンの」が付く Vのみ省略形

コメント

_ sumaru ― 2016/07/05 01:44

トラックバックありがとうございます。

きちんと裏を取ってからコメントしようと思ったのですが、時機を逸してしまいそうなので、裏取りしないままでのコメントで失礼しますが

1596年の2冊はシャヴィニーの手が入っているのでしょうか。
勝手に印刷された再編集版の疑いが濃かった気がするのですが。

ただ、どこで見た情報だか思い出せず、いくらか探している範囲では見当たらないので自信はありません(シュヴィニャールの著書で「台無しにされた」とあるのが近い情報ですが、もっと直接的なのがあった気が・・・)

仮にこのうろ覚えの情報が正しいとすると、1596も視野に入れて、そこから変遷をたどるのは難しいのではないか、という気がしました。
シャヴィニー自身に他のラテン語の著作がない点も、ラテン語が先、という可能性にやや疑問を感じます。

ただ、もちろん、墓碑をセザールやシャヴィニーが書いた可能性よりも、本人が書いた可能性のほうが高いのかもしれない、ということ自体には、私も異論はありませんが

_ 新戦法 ― 2016/07/06 04:18

sumaru さん

早速のコメントありがとうございます。

1596年版について1594年版のダイジェスト版というのは認識しています。シャヴィニーの手が入っていたかはわかりませんが少なくとも墓碑の部分のフランス語テクストについては同一であることを確認しています。

1594年版では伝記に関する小論のフランス語テクストに続いてラテン語テクストが載っていますが、上の記事にもラテン語テクストが先行して書かれたメモのような印象を受けます。それをもとにフランス語テクストに肉付けしていったのではないか。その意味では墓碑の作者をノストラダムス自身と記した箇所をいらない情報としてシャヴィニー自身の判断でオミットして書き直した可能性もあるでしょう。

もう一度伝記の部分のラテン語テクストの冒頭を見直してみると、面白いことにノストラダムスの誕生日が1503年1月19日となっています。フランス語テクストにするときに12月14日に修正したとすればラテン語テクストが先行して書かれた傍証の一つになるのではないでしょうか。

_ sumaru ― 2016/07/06 23:39

ラテン語版は全文を検討していないのであまり詳しいことはいえませんが、

>ノストラダムスの誕生日が1503年1月19日となっています

これは原文からすると「1月のカレンダエの19日前」ということではないでしょうか。それなら普通に12月14日を指していたことになります。

下旬でもないのにこういう言い方をするのは不自然といえばそうですが、ギナール氏あたりだったら
「もともと下旬の21日のつもりで書いていたものを急遽数字だけ変更したから不自然になったのだ」
とか言うのかもしれませんね(^^;

_ 新戦法 ― 2016/07/08 00:10

sumaruさん

> これは原文からすると「1月のカレンダエの19日前」ということではないでしょうか。

なるほどカレンダエの表現のことは失念していました。(^^;
「前の」を表すanteが省略されたと見るのですね。

昔読んだ『フランス語語源こぼれ話』を久し振りに開いてみました。すると1月のカレンダエというのは「ついたち」を意味します。1月1日から19日遡ると確かに12月14日になります。あと1日早かったらイードゥースになるところでしたからローマ暦の表記からするとシャヴィニーの記述は不自然とは言えません。

これをどう受け取るかは確かに人それぞれでしょうね。(^^;

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