ノストラダムスの時代のペスト治療2009/08/09 23:30

医師ノストラダムスがペスト(黒死病)に対してどのように受け止め、対処していたか、『化粧品とジャム論』の第一部八章に詳しく記されている。そのなかに当時の一般的なペスト治療の手段がこう書かれている。「瀉血も強壮剤も、賛美歌などももはや効果がなく、まったく正しく調合したアンドロマコスのテリアカもだめだった。」(『ノストラダムスとルネサンス』246頁、伊藤和行訳)瀉血や強壮剤はわかるが、唐突に賛美歌というのは文脈にそぐわない。原文を見ると、catartiques 現代フランス語に直せばcathartique(下剤)となるはず。どうもcantiqueと見間違えたらしい。大学の先生の訳文といえども油断がならない。瀉血とは、病気が悪い血により起ると考えて、血を抜き取るために腫れたリンパ節を切開して焼くという古代ギリシャの医学理論に基づいている。もちろんこんな治療でペストが治るはずもない。

この文脈からは,テリアカという薬は最後の切り札のようなニュアンスに受け取れる。これすらも効かないペストの猛威というのは現代人には想像もつかない。このアンドロマコスのテリアカ(la tyriaque d'Andromachus)とはどのように調合された秘薬なのだろうか。『ノストラダムスの万能薬』では「ベニスの毒消し」と訳されているが語義の決定経緯が不明瞭である。ジョン・ケリーの『黒死病―ペストの中世史』231頁によると、ペストの予防策として人気のあった伝統的な解毒剤のひとつに挙げられている。澁澤龍彦『毒薬の手帖』文庫版50頁にテリアカの製法についての解説がある。「毒蛇の頭と尾を切り捨てて、その肉を煮、パン屑やいろんな香料をこれに混ぜて、粉末にし、クレタ島産の酒に溶かし、さらにこれをアッティカ産の蜂蜜と混ぜ合わせる」もともとネロの侍医であったアンドロマコスが発明した特効薬であるという。

毒に対して有効であるばかりか、性的不能やペストを含めた万病に対して、効き目があるとされ、中世のあいだ大いに流行した。ノストラダムスがペストに対して、まず第一に伝統的な治療法の知識に基づいて施していたことが理解できよう。ノストラダムスが『化粧品とジャム論』で提唱している万能芳香パウダーについても、ジョン・ケリーが示した、中世の悪臭を放つ瘴気を防ぐという思想がしっかり受け継がれている。こうして見ると、ノストラダムスの調合した薔薇の丸薬も、決して未来の治療法を先取りしたものではないことが明らかである。