第50期王位戦第四局は深浦が勝って1勝目 ― 2009/08/06 00:30

http://event.nishinippon.co.jp/shogi/oui/50oui/
本局は見た目には深浦の快勝に映る。裏返せば木村の優しさ、いや甘さが出た一局ではなかったか。深浦の立場でいうとタイトルホルダーがここまで3連敗、自分の地元で失冠するのはあまりにも辛すぎる。しかしここを冷徹に叩けるかどうか、木村が一流棋士としてさらにステップアップするための試金石でもあったと思う。封じ手の▲4五桂はいったいどうしたことだろう。いつもの木村なら絶対指さないハッタリ手である。もしも逆に木村がカド番に追い込まれていたらこの手を指しただろうか。相手は穴熊、先に桂損、銀がそっぽ、後手の角が直接香に当たっているなど飛車交換にすること自体無茶な感じがする。そこまでしなくても他に有力な選択肢があったはずである。タイトルを目の前にして木村も冷静ではいられなかったか。
お互いに敵陣に打った飛車を二度交換するなど細かい折衝があったが92手目△1九角成と香車を手にした所では明らかに後手が優勢である。こうした展開になると玉形の差がそのまま形勢の差になって現れる。99手目▲5三歩で後手の銀は助からないが、このタイミングで後手は寄せに出た。上図の△7五桂で木村は投了したのだが、これもよくわからない。▲7五同歩△6六飛▲同金△同馬▲7七銀と抵抗すればそんなに簡単な寄せも見出せない。もちろん後手優勢であるのは間違いないがもう少し指しても良かったのではないか。このあたりもいつもの木村の粘りが見られなかった。まあ相手玉が鉄壁で攻め合いにならないので戦意を喪失したのかもしれないが、次局以降に影響がないことを祈りたい。
深浦はひとつ返したとはいえ次局以降もトーナメントを戦う気持ちで臨むだろう。是非とも先の竜王戦に続く、3連敗後の4連勝を狙ってほしいものだ。
本局は見た目には深浦の快勝に映る。裏返せば木村の優しさ、いや甘さが出た一局ではなかったか。深浦の立場でいうとタイトルホルダーがここまで3連敗、自分の地元で失冠するのはあまりにも辛すぎる。しかしここを冷徹に叩けるかどうか、木村が一流棋士としてさらにステップアップするための試金石でもあったと思う。封じ手の▲4五桂はいったいどうしたことだろう。いつもの木村なら絶対指さないハッタリ手である。もしも逆に木村がカド番に追い込まれていたらこの手を指しただろうか。相手は穴熊、先に桂損、銀がそっぽ、後手の角が直接香に当たっているなど飛車交換にすること自体無茶な感じがする。そこまでしなくても他に有力な選択肢があったはずである。タイトルを目の前にして木村も冷静ではいられなかったか。
お互いに敵陣に打った飛車を二度交換するなど細かい折衝があったが92手目△1九角成と香車を手にした所では明らかに後手が優勢である。こうした展開になると玉形の差がそのまま形勢の差になって現れる。99手目▲5三歩で後手の銀は助からないが、このタイミングで後手は寄せに出た。上図の△7五桂で木村は投了したのだが、これもよくわからない。▲7五同歩△6六飛▲同金△同馬▲7七銀と抵抗すればそんなに簡単な寄せも見出せない。もちろん後手優勢であるのは間違いないがもう少し指しても良かったのではないか。このあたりもいつもの木村の粘りが見られなかった。まあ相手玉が鉄壁で攻め合いにならないので戦意を喪失したのかもしれないが、次局以降に影響がないことを祈りたい。
深浦はひとつ返したとはいえ次局以降もトーナメントを戦う気持ちで臨むだろう。是非とも先の竜王戦に続く、3連敗後の4連勝を狙ってほしいものだ。
化粧品とジャム論の初版について ― 2009/08/06 23:52
いわゆる『化粧品とジャム論』は、ノストラダムスの予言モノの作品とはまったくジャンルの異なる著作である。16世紀に15回も再版されるなど随分と人気を博していたことが窺われる。ウィキペディアの「化粧品とジャム論」の項を開いてみると、初版が1555年と書かれている。ところがこの初版の問題は少々厄介な側面を含んでいる。1961年にアメリカで刊行されたエドガー・レオニの示した書誌に拠ると、専門的著作の1番に『化粧品とジャム論』が1552年リヨンで出版されたとある。その情報自体は不完全で、本の完全な題名の記録がないことや標本が残存していないことに触れているのみ。もうひとつ、1552年に刊行されたという第2版は、1557年のプランタン版のオリジナル版で大英博物館に標本があるという。そのような標本が実在するのであればショマラの文献書誌(1989)にリストアップされているはずだが見出せない。
2008年、1555年アントワーヌ・ヴォラン版のファクシミリがミシェル・ショマラ出版より刊行されたようで、ショマラの解説で新たな書誌学的知見が追加されている可能性もある。残念ながら入手できていない。パトリス・ギナールのコーパス・ノストラダムス9の論文では『化粧品とジャム論』が1552年にリヨンでJean Pullon de Trin により刊行されたとある。なるほど序論を読むと1552年4月1日の日付が付記されているので同年に刊行された可能性も捨て切れない。1572年に『化粧品とジャム論』のドイツ語訳書を出したイェレミアス・メルツは、この本はノストラダムスが知人のために1552年に出版したと明記している。であるならば16世紀の書誌に載っているはずだが見当たらない。1552年初版本に言及したのは1717年のピエール・ジョセフ・ド・エイツであり、Falconetのカタログ(1763)にも出版された場所、年、判に関する情報が載っているという。
あるいはユージェヌ・バレートは、1552年に刊行された『化粧品とジャム論』の標本が王立図書館のカタログから失われたことを指摘している。この二つはタイトルや書誌情報が一致しているため同一の版と見なされているが、惜しむらくは標本が残っていない。ギナールの調査ではJean Pullon de Trin なる出版者は実在するようだが、ノストラダムスとの直接の接点はよくわかっていない。
2008年、1555年アントワーヌ・ヴォラン版のファクシミリがミシェル・ショマラ出版より刊行されたようで、ショマラの解説で新たな書誌学的知見が追加されている可能性もある。残念ながら入手できていない。パトリス・ギナールのコーパス・ノストラダムス9の論文では『化粧品とジャム論』が1552年にリヨンでJean Pullon de Trin により刊行されたとある。なるほど序論を読むと1552年4月1日の日付が付記されているので同年に刊行された可能性も捨て切れない。1572年に『化粧品とジャム論』のドイツ語訳書を出したイェレミアス・メルツは、この本はノストラダムスが知人のために1552年に出版したと明記している。であるならば16世紀の書誌に載っているはずだが見当たらない。1552年初版本に言及したのは1717年のピエール・ジョセフ・ド・エイツであり、Falconetのカタログ(1763)にも出版された場所、年、判に関する情報が載っているという。
あるいはユージェヌ・バレートは、1552年に刊行された『化粧品とジャム論』の標本が王立図書館のカタログから失われたことを指摘している。この二つはタイトルや書誌情報が一致しているため同一の版と見なされているが、惜しむらくは標本が残っていない。ギナールの調査ではJean Pullon de Trin なる出版者は実在するようだが、ノストラダムスとの直接の接点はよくわかっていない。
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