講談社+α新書を二冊読んだ ― 2009/02/01 15:39
講談社の+α新書は、本の後ろのカバーにテーマ分類の記号の説明がある。一般読者の興味を引きそうなテーマばかり、A こころ、B からだ、C あたま、D ゆとり とシンプルで実用的な分野が多い。テーマCの二冊を読んでみたが企画物といった印象が強い。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4062724200.html
石井大地 東大理Ⅲ生の「人を巻き込む」能力の磨き方 講談社+α新書 2007。肩書きに東大生とあるのが目を引くが、本人が出版社に企画を売り込む際の売りだったのだろう。とはいえ、長い人生のなかで学生でいられる時期はほんのわずかであるし、今や東大生のブランドもさほどのものとは思えない。行間の随所で自分がスーパーエリートであると強調しながら、そのボクが書いている本だから信用できますといったイメージがあまり良くない。
そんな論調も自分の年代から見ると、あまり背伸びしすぎなくてもと思ってしまう。もっとも学生でありながら多くのビジネス専門書を読み、それを仕事やプライベートで実践している優秀な学生には違いない。2005年から2007年で11冊もの本も執筆している。その経験を踏まえて様々な場面での「攻めのコミュニケーション技術」を説いており、感心するところもある。導入部で対人関係を恋愛に置き換えているところがまあ若者らしい。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4062723158.html
加藤良平 遺伝子工学が日本的経営を変える?―人間的「成果主義」はあるのか? 講談社+α新書 2005。組織を考える上で遺伝子工学とのアナロジーで論を展開しているが、直感的にちょっと無理があるんじゃないの、というのが率直な感想である。組織や経営の話をしているかと思えば、さっと遺伝子工学の話に飛んでしまい読みづらいことこの上ない。もともと遺伝子工学の知識のないものに、それを比喩として用いてもチンプンカンプンである。ビジネス主体の話でよかったのではないか。
現在は不景気で企業はどこも経費削減が叫ばれている。ただし合理性を突き詰めすぎると新しい環境への適応が難しくなる。(67頁)とか、最善の解が見つからない際にも、まず顧客に提案してみる、それなにか反応があれば、改めてそこからニーズに対応した動きをする。(87頁)実務に役立つアドバイスも数多い。あとがきによると、もともと遺伝子工学入門というものを組織の事例で説明するという企画だったが、編集者のアドバイスで軸足を変えた。どうしてわかりにくいビジネス書になってしまったのか、ようやく納得した。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4062724200.html
石井大地 東大理Ⅲ生の「人を巻き込む」能力の磨き方 講談社+α新書 2007。肩書きに東大生とあるのが目を引くが、本人が出版社に企画を売り込む際の売りだったのだろう。とはいえ、長い人生のなかで学生でいられる時期はほんのわずかであるし、今や東大生のブランドもさほどのものとは思えない。行間の随所で自分がスーパーエリートであると強調しながら、そのボクが書いている本だから信用できますといったイメージがあまり良くない。
そんな論調も自分の年代から見ると、あまり背伸びしすぎなくてもと思ってしまう。もっとも学生でありながら多くのビジネス専門書を読み、それを仕事やプライベートで実践している優秀な学生には違いない。2005年から2007年で11冊もの本も執筆している。その経験を踏まえて様々な場面での「攻めのコミュニケーション技術」を説いており、感心するところもある。導入部で対人関係を恋愛に置き換えているところがまあ若者らしい。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4062723158.html
加藤良平 遺伝子工学が日本的経営を変える?―人間的「成果主義」はあるのか? 講談社+α新書 2005。組織を考える上で遺伝子工学とのアナロジーで論を展開しているが、直感的にちょっと無理があるんじゃないの、というのが率直な感想である。組織や経営の話をしているかと思えば、さっと遺伝子工学の話に飛んでしまい読みづらいことこの上ない。もともと遺伝子工学の知識のないものに、それを比喩として用いてもチンプンカンプンである。ビジネス主体の話でよかったのではないか。
現在は不景気で企業はどこも経費削減が叫ばれている。ただし合理性を突き詰めすぎると新しい環境への適応が難しくなる。(67頁)とか、最善の解が見つからない際にも、まず顧客に提案してみる、それなにか反応があれば、改めてそこからニーズに対応した動きをする。(87頁)実務に役立つアドバイスも数多い。あとがきによると、もともと遺伝子工学入門というものを組織の事例で説明するという企画だったが、編集者のアドバイスで軸足を変えた。どうしてわかりにくいビジネス書になってしまったのか、ようやく納得した。
ノストラダムス資料の整理は5Sで ― 2009/02/02 23:43
製造業などで職場の環境を整える合言葉に5S(ごえす)というのがある。整理・整頓・清掃・清潔・躾の頭文字にあるさ行のSを指している。整理と整頓は似ているようだが、整理は不要物を捨てること、整頓は必要なものがすぐに取り出せるようにしておくことだ。sumaruさんのノストラダムスの大事典を見ると、数多くの文献が適切に参照されている。あれだけ膨大な情報をどうやって扱っているのだろうと本当に感心してしまう。我が身を振り返ると、今これを書いているパソコンの前も残念ながら「清掃」されていない。すぐに使うかと思って、本や資料を取り出したままになり、断層のようになっている。やはり机の上は「清潔」にしておかないといいアイデアも出てこない。
最近はインターネット上から入手した電子データも多いが、これも増えすぎてしまい必要な情報を取り出すのも手間である。フォルダに分けていても結局人間検索になってしまう。つまりはデータがきちんと「整理」されていないのだ。いらないデータとかダブっているのも多い。そこで富士ゼロックスのDocuWorks(ドキュワークス)を用いてDocuWorks desktopにデータの集積をしようと思いついた。pdfとは違って紙ベースで取り扱えるので、しおりを挟んだり、コメントを入れたり、頁のばらしやまとめも行える。ただし海外のpdfファイルを変換しようとすると、どういうわけか字化けしてしまうのが悩みの種だ。画像は問題ないのでBNFの文書などを変換して「整頓」してみたい。
ノストラダムスの関連書は各部屋の本棚に分散している。どの本がどこにあるのか大体は頭のなかに入っているが、それにも限界があるので「プチ図書館」を使って少しずつ収納場所を登録している。普段から本をランダムに収納するのではなく、一定の分類で保管する「躾」が必要なのである。
最近はインターネット上から入手した電子データも多いが、これも増えすぎてしまい必要な情報を取り出すのも手間である。フォルダに分けていても結局人間検索になってしまう。つまりはデータがきちんと「整理」されていないのだ。いらないデータとかダブっているのも多い。そこで富士ゼロックスのDocuWorks(ドキュワークス)を用いてDocuWorks desktopにデータの集積をしようと思いついた。pdfとは違って紙ベースで取り扱えるので、しおりを挟んだり、コメントを入れたり、頁のばらしやまとめも行える。ただし海外のpdfファイルを変換しようとすると、どういうわけか字化けしてしまうのが悩みの種だ。画像は問題ないのでBNFの文書などを変換して「整頓」してみたい。
ノストラダムスの関連書は各部屋の本棚に分散している。どの本がどこにあるのか大体は頭のなかに入っているが、それにも限界があるので「プチ図書館」を使って少しずつ収納場所を登録している。普段から本をランダムに収納するのではなく、一定の分類で保管する「躾」が必要なのである。
将棋世界3月号は渡辺の永世竜王特集号 ― 2009/02/03 23:53
本日、将棋世界3月号が発売されるということで、仕事帰りに本屋に立ち寄り購入した。帰りの電車でざっと読んでみた。先の竜王戦第七局は異常なほどの盛り上がりを見せ、100年に一度の大勝負という声もある。今月号が永世竜王の資格を獲得した渡辺の特集号になっているのも当然であろう。すっかり定着してきたプレイバック2008でもこの第七局が圧倒的な支持で一位に推されている。渡辺のための将棋世界といっても過言ではない。記事は記者会見や週刊将棋のインタビューとさほど違いはない。そりゃ同じ人が同じテーマで話すのにあっちこっちでバラバラなことをいうと一貫性に欠けるから。
将棋世界のインタビューの最後にも「竜王戦以外でももっと勝たなければなりません」と改めて決意のほどを表明しているが、現実はそれほど甘くない。順位戦で負け、棋聖戦も2連敗で失格、タイトル挑戦への道はすでに絶たれた。いま一番棋戦優勝に近いのが朝日杯将棋オープンである。公開対局で1日で準決勝、決勝とこなすスピィーディな試合方式は直感力に勝る若手に有利と思われる。ベスト4に残ったのが佐藤和、阿久津、渡辺、久保と珍しく羽生世代の名前が見られない。このなかで一番若いのが渡辺でタイトル保持者でもあるし、ここは貫禄を示しておきたい。
将棋世界のなかでは久しぶりの過激企画「指し込み2番勝負!!」が面白い。ついにというべきか若手の糸谷がタイトルホルダーの深浦を香落ち平手で血祭りを挙げた。さすが大物、局後談話では今度は香落ち上手で指したかったという。確かに香落ちははっきり良くするのは難しいかもしれないが、トップと若手強豪ではキツイ手合いなのかもしれない。第三回は渡辺と豊島の対戦となる。もう終わっているはずだが結果はどうなったのだろうか。来月号が楽しみである。
将棋世界のインタビューの最後にも「竜王戦以外でももっと勝たなければなりません」と改めて決意のほどを表明しているが、現実はそれほど甘くない。順位戦で負け、棋聖戦も2連敗で失格、タイトル挑戦への道はすでに絶たれた。いま一番棋戦優勝に近いのが朝日杯将棋オープンである。公開対局で1日で準決勝、決勝とこなすスピィーディな試合方式は直感力に勝る若手に有利と思われる。ベスト4に残ったのが佐藤和、阿久津、渡辺、久保と珍しく羽生世代の名前が見られない。このなかで一番若いのが渡辺でタイトル保持者でもあるし、ここは貫禄を示しておきたい。
将棋世界のなかでは久しぶりの過激企画「指し込み2番勝負!!」が面白い。ついにというべきか若手の糸谷がタイトルホルダーの深浦を香落ち平手で血祭りを挙げた。さすが大物、局後談話では今度は香落ち上手で指したかったという。確かに香落ちははっきり良くするのは難しいかもしれないが、トップと若手強豪ではキツイ手合いなのかもしれない。第三回は渡辺と豊島の対戦となる。もう終わっているはずだが結果はどうなったのだろうか。来月号が楽しみである。
情報の「目利き」になる! ― 2009/02/04 23:59
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4480059652.html
日垣隆 情報の「目利き」になる!―メディア・リテラシーを高めるQ&A ちくま新書 2002年 を読んだ。副題にあるメディア・リテラシーというのはGoo 辞書にも載っていて「メディア(情報一般)を利用する技術や,伝えられた内容を分析する能力のこと。」とある。そこから一歩踏み込んで「広い意味での取材能力と表現力のこと」、一言でいえば本のメインタイトルにある情報の「目利き」ということになる。リテラシーを辞書で引くと原義は「読み書きができること」で、そこから広がって「ある分野に関する知識やそれを活用する能力」をいう。リテラシーはどんな分野の仕事においても身につけるべき大切なスキルなのだ。
この本では一般読者の関心を引く身近なテーマを、Q&A形式でユーモアを交えながら語りかけるように鋭いモノの見方を披露している。プロのジャーナリスト・作家らしく抜群に面白いと同時に参考になるところが多い。第19話「私の情報収集法」はまさに目から鱗が落ちた気分になった。質問者の挙げた情報源に「国会図書館、ネット、オンライン書店での検索、専門家へのインタヴュー」があるが、これらが決して主要な情報源ではないという。こうした資料を読み込む理由は「第1に、どうしても腑に落ちない点を調べ、第2に、私以外の誰かがすでに書いていないかどうかを確認し、第3に、自分の立てた幾多の仮説が専門家による旧態言説の中を貫通(ついでに破壊)するかどうかを点検する」ことにある。
すでに公表された資料を基に書くのではなく、自分にしか集められない資料や証言に基づいて書く、すなわちジャーナリズムとアカデミズムの合体が情報収集術の基本であるという。確かにひとつの理想的な形である。あとがきにあるように、現代の情報の洪水のなかでウソ情報を見抜き、自分にとって必要な情報を収集・分析し、伝えたい事柄を的確に表現する「技術」は万人に必要とされる。この本をお手本にして少しずつでも実践していけたらと思う。
日垣隆 情報の「目利き」になる!―メディア・リテラシーを高めるQ&A ちくま新書 2002年 を読んだ。副題にあるメディア・リテラシーというのはGoo 辞書にも載っていて「メディア(情報一般)を利用する技術や,伝えられた内容を分析する能力のこと。」とある。そこから一歩踏み込んで「広い意味での取材能力と表現力のこと」、一言でいえば本のメインタイトルにある情報の「目利き」ということになる。リテラシーを辞書で引くと原義は「読み書きができること」で、そこから広がって「ある分野に関する知識やそれを活用する能力」をいう。リテラシーはどんな分野の仕事においても身につけるべき大切なスキルなのだ。
この本では一般読者の関心を引く身近なテーマを、Q&A形式でユーモアを交えながら語りかけるように鋭いモノの見方を披露している。プロのジャーナリスト・作家らしく抜群に面白いと同時に参考になるところが多い。第19話「私の情報収集法」はまさに目から鱗が落ちた気分になった。質問者の挙げた情報源に「国会図書館、ネット、オンライン書店での検索、専門家へのインタヴュー」があるが、これらが決して主要な情報源ではないという。こうした資料を読み込む理由は「第1に、どうしても腑に落ちない点を調べ、第2に、私以外の誰かがすでに書いていないかどうかを確認し、第3に、自分の立てた幾多の仮説が専門家による旧態言説の中を貫通(ついでに破壊)するかどうかを点検する」ことにある。
すでに公表された資料を基に書くのではなく、自分にしか集められない資料や証言に基づいて書く、すなわちジャーナリズムとアカデミズムの合体が情報収集術の基本であるという。確かにひとつの理想的な形である。あとがきにあるように、現代の情報の洪水のなかでウソ情報を見抜き、自分にとって必要な情報を収集・分析し、伝えたい事柄を的確に表現する「技術」は万人に必要とされる。この本をお手本にして少しずつでも実践していけたらと思う。
ジャン・シャルル・ピションのノストラダムス本 ― 2009/02/06 01:02

海外のノストラダムス本のなかには何度も再版されているものがある。英語圏では以前に紹介したウォードやマッキャン、ロッブ、レオニ、ロバーツ、チータムらが挙げられる。本国フランスのフォンブリュヌ親子、ドイツではツェントゥーリオ博士らの名前も思い浮かぶ。これら有名どころの研究家はこれまでに日本の関連書で言及されたことがある。今回のジャン・シャルル・ピションJean-Charles Pichonの本は、2001年箱入りの二巻本で刊行された。薄いほうが「ノストラダムス、伝記編」や厚いほうが「ノストラダムス、作品編」となっている。ピションは1920年生まれ、詩人、歴史家、数学者、哲学者と紹介があり、多くの精神世界系の著作がある。1959年と1970年にノストラダムス本を書いており、新装版の二巻本は実質的にこれらの再版である。
1959年『ノストラダムスと時代の秘密』は、ノストラダムスの伝記が占めている。本文は2001年版と同一だが付録が異なる。1959年版は「1566年版に従ったサンチュリの批判的研究」で過去の注釈者たちを引き合いに出しながら予言解釈に充てている。さらに「1930-1940」、「1940-1950」、「1950-19…?」と近過去、現在、近未来に分けて四行詩の原文を掲げている。注釈等はほとんどついていないので読者に解釈を委ねた形だ。2001年版は付録がアンリ二世への書簡の年代暗号の解説である。書簡の年代記の数字から、人類は変革のときである分点歳差周期の2160年に近づき、予言集における「永劫回帰」の法則は過去の映像があたかも未来のものであるかのように説いている。(ミシャル・C・トゥシャール『時の旅人ノストラダムス』174頁)
1970年の『解明されたノストラダムス』は、予言解釈本である。こちらも本文は2001年版と同じだが、1970年版には2001年にない序文11-39頁があり、さらに付録に前述のアンリ二世への書簡(解説)が載っている。2001年版の作品編では、2000年5月付の「後記 予言の未来」が追加された。当時ピションは80歳、1999年と911の米同時多発テロのちょうど合間に書いたことになる。とはいえ最新の研究が盛り込まれているわけではなく、持論である時間循環サイクルについて述べている。ノストラダムスの示した時の転換期を2240年(ヨアキムの年代記で1000年?)とし、最後にお得意の年代表が載っている。ピションは予言集に出てくる年代に1238年を足して西暦に直している。
この論法で、1999年は西暦3237年に換算されている。ところが1959年の本では1557年を足していたのだが・・・ピションは年代記を考える上で予言集に出てくる年代に足し算するのがお好きなようである。イオネスクのピションへの評「ノストラダムス四行詩を単なる偽文学的漫談の隠れ蓑と見なしているのだから救いようがない」は手厳しい。正直どこを読むと漫談が出てくるのかわからないが。忘れ去られた研究家ピションの本がなぜ21世紀に再登板したか、不可思議としかいいようがない。
1959年『ノストラダムスと時代の秘密』は、ノストラダムスの伝記が占めている。本文は2001年版と同一だが付録が異なる。1959年版は「1566年版に従ったサンチュリの批判的研究」で過去の注釈者たちを引き合いに出しながら予言解釈に充てている。さらに「1930-1940」、「1940-1950」、「1950-19…?」と近過去、現在、近未来に分けて四行詩の原文を掲げている。注釈等はほとんどついていないので読者に解釈を委ねた形だ。2001年版は付録がアンリ二世への書簡の年代暗号の解説である。書簡の年代記の数字から、人類は変革のときである分点歳差周期の2160年に近づき、予言集における「永劫回帰」の法則は過去の映像があたかも未来のものであるかのように説いている。(ミシャル・C・トゥシャール『時の旅人ノストラダムス』174頁)
1970年の『解明されたノストラダムス』は、予言解釈本である。こちらも本文は2001年版と同じだが、1970年版には2001年にない序文11-39頁があり、さらに付録に前述のアンリ二世への書簡(解説)が載っている。2001年版の作品編では、2000年5月付の「後記 予言の未来」が追加された。当時ピションは80歳、1999年と911の米同時多発テロのちょうど合間に書いたことになる。とはいえ最新の研究が盛り込まれているわけではなく、持論である時間循環サイクルについて述べている。ノストラダムスの示した時の転換期を2240年(ヨアキムの年代記で1000年?)とし、最後にお得意の年代表が載っている。ピションは予言集に出てくる年代に1238年を足して西暦に直している。
この論法で、1999年は西暦3237年に換算されている。ところが1959年の本では1557年を足していたのだが・・・ピションは年代記を考える上で予言集に出てくる年代に足し算するのがお好きなようである。イオネスクのピションへの評「ノストラダムス四行詩を単なる偽文学的漫談の隠れ蓑と見なしているのだから救いようがない」は手厳しい。正直どこを読むと漫談が出てくるのかわからないが。忘れ去られた研究家ピションの本がなぜ21世紀に再登板したか、不可思議としかいいようがない。
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