蔵書の苦しみ ― 2014/07/25 22:44
岡崎武志 『蔵書の苦しみ』(光文社新書、2013年7月20日)を読んでみた。自分もささやかながら蔵書というかコレクションがある。この本の著者のように毎日のように本を購入するわけではないので比較するのもおこがましいが、共感できるところは多い。一度手にした本はなかなか捨てられないため増殖していく一方である。手元にどれだけの本があるのか、数えたことがないため大雑把な目見当でしかないがざっと4、5千冊と踏んでいる。何せ30年以上もかけて収集してきたノストラダムスの関連書は捨てられないので増える一方。関連記事の載っている雑誌、洋書もこのなかに含まれる。
将棋関係の単行本は学生のとき揃えた本はごく一部を除き寄贈して処分したが、それ以降の単行本は残ったままだ。将棋雑誌に関しては2回の引っ越しのときその都度すべて処分したのだが、今の住まいに移ってから15年間分の将棋世界、近代将棋のバックナンバーは手元にある。さらに将棋マガジンのバックナンバーやら付録やらで結構な場所を取っているのは間違いない。家のなかを見渡してみると、すべての部屋に本棚が置いてある。リビングには本箱が2つとキャビネが一つ、小物用のラックのなかに本を積み上げて収まりきれないのはPCランクまで突っ込んでいる。
リビングのほかに部屋が4つある。自分の書斎といえる部屋には本箱が4つと衣装ケース(もちろん中身は本)が3つあるが、収まりきれない本は床から積み上げている状態だ。もうひとつの部屋は本箱を2段重ねにして相当余裕があると思っていたがここも満杯。文庫本用の収納箱4つと衣装ケース2つも別に置いているがやはり本はあぶれている。別の部屋は大きな本箱がひとつであるがここも一杯。畳の部屋である寝室には自分の本は置いていないが、子供の絵本や雑誌類が棚の中に雑然と置かれた状態である。こんな状況では読みたい本、必要な本がどこにあるか探し出すのは容易ではない。
本を整理するにはやはり収納できる本棚がほしいところであるが一時しのぎに過ぎず結局は同じことだろう。本書のなかにあるようにやはり蔵書をスリム化することが重要である。背表紙の見えない本は結局死蔵しているに等しくすべて本箱に収納するのが理想である。本箱の定員数は決まっているのだからいらない本の優先順位をつけて処分していくというのが正解だろう。あと自炊という方法で電子書籍化するという方法もあるが手間がかかりすぎる。ただ将棋雑誌や「トワイライトゾーン」「ムー」などは電子化した上で処分ができたらどんなに楽だろうと思うこともある。
本書では蔵書処分の最終手段として一人古本市を開いて蔵書の一部を処分したとあるが、これは素人にはまず不可能である。ノストラダムスと直接関係のない人文書は値段の張るものが結構あるのでそれなりの古本屋に持ち込めばまあまあの値段になるとは思うが、精読していないのも多くちょっと手放す気にはなれない。日本で出版されたノストラダムス本はもちろん海外の洋書だって一般的に需要がなければ二束三文だろう。たまたますぐ近くににBのつく古本屋(ブックオフ)があるのでまずは古い文庫本あたりから手をつけようか。お盆休みでも少しずつチャレンジしてみたいと思う。
「わかる」とはどういうことか ― 2010/02/28 23:54
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4480059393.html
山鳥重 「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学 ちくま新書 2002年4月20日 を読んだ。「わかる」というのは、日常で遭遇する未知の事柄について自分のなかに吸収し、知覚することである。それは本を読んだり、テレビを見たり、友人と話をしたり、仕事におけるコミュニケーションなど、様々なシチュエーションが思い当たる。おそらく「わかる」という心の動きは、意識する場合もあれば無意識のうちに行われる場合もあろう。人にモノを教えるようなときには逆にいかにして「わからせる」かが大切となる。わからないことが「わかる」というのは、それがどういったものであるか、自分自身の経験を総動員して考えることによるものだ。著者である山鳥氏は、神経内科が専門で、脳に損傷が生じたことで認知障害が引き起こされた人たちの診断や治療にあたっている。
その経験を踏まえ、「わかる」をキーワードに例を挙げながら「心像」という心の動きを解説してくれる。新しい事実、新しい経験に立ち向かっていくときには記憶という土台が出来上がって、初めてわかるとか、わからないとか心理的な反応(感情)が生まれる。出来事の記憶、意味の記憶、意識に上りにくい手順の記憶がある。手順の記憶は繰り返し繰り返し実践することによって身体に覚え込ませるもの。こうした記憶という土台が「わかる」ために必要なことなのである。ではどういったことが「わかる」ことなのか。第4章「わかる」にもいろいろある では様々な「わかる」を分類化している。1 全体像が「わかる」 2 整理すると「わかる」 3 筋が通ると「わかる」 4 空間関係が「わかる」 5 仕組みが「わかる」 6 規則に合えば「わかる」
第5章のどんな時に「わかった」と思うか で「わかる」のメカニズムを示してくれる。1 直感的に「わかる」 2 まとまることで「わかる」 3 ルールを発見することで「わかる」 4 置き換えることで「わかる」 これらはプレゼンテーションのポイントと重なる部分が多い。状況に応じて最適な行動を起こすには、複数の行動プラン(選択肢)が必要である。そのときにもっとも適切な行動を選びとる能力が知能と呼ぶものという。この本を読んで、「わかる」ということが少しでも理解できたような気がする。あと必要なものは知能、これがなかなか難しい。
山鳥重 「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学 ちくま新書 2002年4月20日 を読んだ。「わかる」というのは、日常で遭遇する未知の事柄について自分のなかに吸収し、知覚することである。それは本を読んだり、テレビを見たり、友人と話をしたり、仕事におけるコミュニケーションなど、様々なシチュエーションが思い当たる。おそらく「わかる」という心の動きは、意識する場合もあれば無意識のうちに行われる場合もあろう。人にモノを教えるようなときには逆にいかにして「わからせる」かが大切となる。わからないことが「わかる」というのは、それがどういったものであるか、自分自身の経験を総動員して考えることによるものだ。著者である山鳥氏は、神経内科が専門で、脳に損傷が生じたことで認知障害が引き起こされた人たちの診断や治療にあたっている。
その経験を踏まえ、「わかる」をキーワードに例を挙げながら「心像」という心の動きを解説してくれる。新しい事実、新しい経験に立ち向かっていくときには記憶という土台が出来上がって、初めてわかるとか、わからないとか心理的な反応(感情)が生まれる。出来事の記憶、意味の記憶、意識に上りにくい手順の記憶がある。手順の記憶は繰り返し繰り返し実践することによって身体に覚え込ませるもの。こうした記憶という土台が「わかる」ために必要なことなのである。ではどういったことが「わかる」ことなのか。第4章「わかる」にもいろいろある では様々な「わかる」を分類化している。1 全体像が「わかる」 2 整理すると「わかる」 3 筋が通ると「わかる」 4 空間関係が「わかる」 5 仕組みが「わかる」 6 規則に合えば「わかる」
第5章のどんな時に「わかった」と思うか で「わかる」のメカニズムを示してくれる。1 直感的に「わかる」 2 まとまることで「わかる」 3 ルールを発見することで「わかる」 4 置き換えることで「わかる」 これらはプレゼンテーションのポイントと重なる部分が多い。状況に応じて最適な行動を起こすには、複数の行動プラン(選択肢)が必要である。そのときにもっとも適切な行動を選びとる能力が知能と呼ぶものという。この本を読んで、「わかる」ということが少しでも理解できたような気がする。あと必要なものは知能、これがなかなか難しい。
死にゆく者からの言葉 ― 2010/02/14 20:37
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4167271044.html
鈴木秀子 死にゆく者からの言葉 文春文庫 2008年7月5日 を読んだ。フジテレビのドラマ『コード・ブルー』のセカンドシーズンが放映されている。救命医療の現場を描いたストーリであるため、毎回死に瀕した患者が登場する。最後の言葉を振り絞りながら息絶えてしまう患者も多い。先週は、冴島はるか(比嘉愛未)の恋人、田沢悟史(平山浩行)が最後に看取られるシーンがクライマックス。人生の最期の死に際でペラペラ話ができるというのはドラマの脚色だろうと思っていたが、最期の言葉を伝えるために一瞬元気になったように見える状態があるという。この本はシスターである著者が出会った、そうした場面を生き生きと描いている。単行本は1993年8月の刊行。文庫化されたのが1996年で手許のものは第6刷というロングセラーとなっている。
この本を読むと、確かに死に直面した感動的なシーンが多くセレクトされている。思わずほろりとする箇所も少なくない。序章では著者が臨死体験で光を見たという。この生命の光に包まれると至福そのもので「愛する」と「知る」を理解する。こういう神秘体験は信じる人には素晴らしい奇跡なのだろうが、どうしても感覚的なものに支配される。論理的に考えると、臨死体験自体が何か人間の潜在的な記憶を引き出しているだけではないか。霊を見たというのも人間の脳内の潜在意識のなせる悪戯と思う。死に行く者たちは自分に死が迫っていることを知っている。そしてこの世に生きた証しとして家族に最期の言葉を残し、憂いを残さず逝きたいと強く念じる。著者はこれを「仲よし時間」と呼ぶ。そういう状況が実際に起こりうるのは事実なのだろう。
病気で療養中の父が亡くなる2日ほど前、夜中に父の亡くなる夢を見た。初めてのことだったしあまりにも鮮明だったので午前2時頃だったか、飛び起きて思わず時計を見たものだ。ずっと会話もできない寝たきりだったが、その時には自らの最期を悟り、何か伝えたい一心で念を送ったのではないか、今ではそう考えている。死の間際に家族に囲まれて最期の言葉を発して満足して逝くというのは、現代社会では贅沢なことになってしまった、そんな気もする。
鈴木秀子 死にゆく者からの言葉 文春文庫 2008年7月5日 を読んだ。フジテレビのドラマ『コード・ブルー』のセカンドシーズンが放映されている。救命医療の現場を描いたストーリであるため、毎回死に瀕した患者が登場する。最後の言葉を振り絞りながら息絶えてしまう患者も多い。先週は、冴島はるか(比嘉愛未)の恋人、田沢悟史(平山浩行)が最後に看取られるシーンがクライマックス。人生の最期の死に際でペラペラ話ができるというのはドラマの脚色だろうと思っていたが、最期の言葉を伝えるために一瞬元気になったように見える状態があるという。この本はシスターである著者が出会った、そうした場面を生き生きと描いている。単行本は1993年8月の刊行。文庫化されたのが1996年で手許のものは第6刷というロングセラーとなっている。
この本を読むと、確かに死に直面した感動的なシーンが多くセレクトされている。思わずほろりとする箇所も少なくない。序章では著者が臨死体験で光を見たという。この生命の光に包まれると至福そのもので「愛する」と「知る」を理解する。こういう神秘体験は信じる人には素晴らしい奇跡なのだろうが、どうしても感覚的なものに支配される。論理的に考えると、臨死体験自体が何か人間の潜在的な記憶を引き出しているだけではないか。霊を見たというのも人間の脳内の潜在意識のなせる悪戯と思う。死に行く者たちは自分に死が迫っていることを知っている。そしてこの世に生きた証しとして家族に最期の言葉を残し、憂いを残さず逝きたいと強く念じる。著者はこれを「仲よし時間」と呼ぶ。そういう状況が実際に起こりうるのは事実なのだろう。
病気で療養中の父が亡くなる2日ほど前、夜中に父の亡くなる夢を見た。初めてのことだったしあまりにも鮮明だったので午前2時頃だったか、飛び起きて思わず時計を見たものだ。ずっと会話もできない寝たきりだったが、その時には自らの最期を悟り、何か伝えたい一心で念を送ったのではないか、今ではそう考えている。死の間際に家族に囲まれて最期の言葉を発して満足して逝くというのは、現代社会では贅沢なことになってしまった、そんな気もする。
欧米を凌ぐ将棋発想 ― 2010/01/25 23:44
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4795810117.html
湯川博士 欧米を凌ぐ将棋発想―9×9は日本人のビジネス兵器である 情報センター 1987年5月5日 を読んだ。かなり古い本であるが紀伊国屋のウェブを見ると、お買い物カゴのマークが出ている。今でも入手可能なのだろうか。タイトルに将棋とあるので戦術書かと思って読むと大間違い。何せ、欧米を凌ぐなんて大風呂敷を敷いているのだ。将棋から得られた発想を日本のビジネスマン向けに普遍的な教訓として説いている、ちょっと毛並みの違った本である。将棋の考え方を、基本、序盤、中盤、終盤に分けてビジネスとのアナロジーを演出している。将棋を知っている人なら、局面も数多く挿入されているのでサッと読むことができる。中にはちょっとコジツケじゃないの、というのもあるが、全体的には非常に面白かった。
そもそもの目的が将棋を越えた普遍的な勝負術をビジネス訓として啓蒙することにあったようだが、逆にいえば初段を目指すくらいのビジネスマンが将棋を勝つための様々な手筋やテクニックなどを覚えるのにちょうどいい教材にもなる。将棋もビジネスも相手との細かい駆け引きが不可欠である。勝負における勝ち負けのポイントは「勝負的発想法」という。不利な局面のときこそ、その人の本当の実力が発揮されるものだ。将棋の強い人ほど最後の投了まで諦めが悪く、相手の心理を突いて嫌味嫌味と迫ってくる。決して自ら暴発して一気に負けになるような手順を選ぶことはなく、粘り強く指してくる。こういった心構えは人生の色々な場面においてもきっと遭遇するはず。本書は著者の実戦経験から実際の将棋のある局面における考え方から普遍的な教訓を引き出す。
参考になる心得を少し引用しておこう。一手で二手分が受けの極意。苦しいときは、まず夢を描け。「勝てるか」ではなく「まだ戦えるか」にこだわれ。勝者の事なかれ主義をつけ。勝勢の時は単純に、敗勢の時は複雑に。敵の目になって自陣を見直せ。是非とも自身の実戦に生かしていきたいものである。
湯川博士 欧米を凌ぐ将棋発想―9×9は日本人のビジネス兵器である 情報センター 1987年5月5日 を読んだ。かなり古い本であるが紀伊国屋のウェブを見ると、お買い物カゴのマークが出ている。今でも入手可能なのだろうか。タイトルに将棋とあるので戦術書かと思って読むと大間違い。何せ、欧米を凌ぐなんて大風呂敷を敷いているのだ。将棋から得られた発想を日本のビジネスマン向けに普遍的な教訓として説いている、ちょっと毛並みの違った本である。将棋の考え方を、基本、序盤、中盤、終盤に分けてビジネスとのアナロジーを演出している。将棋を知っている人なら、局面も数多く挿入されているのでサッと読むことができる。中にはちょっとコジツケじゃないの、というのもあるが、全体的には非常に面白かった。
そもそもの目的が将棋を越えた普遍的な勝負術をビジネス訓として啓蒙することにあったようだが、逆にいえば初段を目指すくらいのビジネスマンが将棋を勝つための様々な手筋やテクニックなどを覚えるのにちょうどいい教材にもなる。将棋もビジネスも相手との細かい駆け引きが不可欠である。勝負における勝ち負けのポイントは「勝負的発想法」という。不利な局面のときこそ、その人の本当の実力が発揮されるものだ。将棋の強い人ほど最後の投了まで諦めが悪く、相手の心理を突いて嫌味嫌味と迫ってくる。決して自ら暴発して一気に負けになるような手順を選ぶことはなく、粘り強く指してくる。こういった心構えは人生の色々な場面においてもきっと遭遇するはず。本書は著者の実戦経験から実際の将棋のある局面における考え方から普遍的な教訓を引き出す。
参考になる心得を少し引用しておこう。一手で二手分が受けの極意。苦しいときは、まず夢を描け。「勝てるか」ではなく「まだ戦えるか」にこだわれ。勝者の事なかれ主義をつけ。勝勢の時は単純に、敗勢の時は複雑に。敵の目になって自陣を見直せ。是非とも自身の実戦に生かしていきたいものである。
情報を捨てる技術 ― 2010/01/21 23:45
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4062573059.html
諏訪邦夫 情報を捨てる技術―あふれる情報のどれを捨てるか ブルーバックス 2000年10月20日 を読んだ。学生の頃はたまにブルーバックスの科学物を読むことがあったが最近はとんと御無沙汰であった。この本が出版されてからもう10年になろうとしている。もちろん2000年当時もインターネットはあったし、容量の大きなハードディスクも発売されていた。しかし当時と比べると電子時代の情報量は格段に増加している。情報もウェブサイトからブログ、最近はtwitterと、羅針盤のない宇宙を漂うかのように様々な形式で発進され続けている。有益なものから石ころに過ぎないものまでまさに玉石混交の様相を呈している。情報の渦のなかに投げ出されて、どのような形で向き合っていけばよいのだろうか。そう、タイトルにあるように情報を捨てる技術が肝要となってくる。
本書は著者の諏訪氏の実際の経験を踏まえて書かれている。10年前ということで情報ツールの章のソフトやOS、フロッピーディスク、MOなど今読むと当時の懐かしい香りが漂ってくる。もちろん情報は電子データだけではない。書籍や専門誌、論文、雑誌、新聞など見渡すと多種多様である。こうした情報をすべて取り込もうとするのは無理がある。本書の第1部では不要な情報を初めから「捨ててかかる」方法を示してくれる。情報に安易に手を出すことなく、初めから捨てるつもりで臨むべきという。もっとも本当に価値のある情報だけをピックアップするにはある程度の眼力を養っておかなければならない。外国の情報は英語だけで十分というのは、ちょっと乱暴かもしれないが学問的な分野ではもっともなことである。インターネットのアクセスリミットは10分とすれば、無駄な時間とエネルギーを節約することができる。
パソコンであればどんどんデータをハードディスクに蓄積していける。マウスのクリックひとつで簡単に削除することで捨てることは可能である。しかし、いつか必要なときが来るのではないかと思い悩みながら、なかなか捨てることができない。そこで捨てる勇気をもつ。パソコンのハードディスク内、ファイリングキャビネット、本棚・・・それらの容量は有限であり、どんどん増え続ける。自分自身もこの本のアドバイスを手掛りに少しずつ捨てる勇気を出していかなければ。
諏訪邦夫 情報を捨てる技術―あふれる情報のどれを捨てるか ブルーバックス 2000年10月20日 を読んだ。学生の頃はたまにブルーバックスの科学物を読むことがあったが最近はとんと御無沙汰であった。この本が出版されてからもう10年になろうとしている。もちろん2000年当時もインターネットはあったし、容量の大きなハードディスクも発売されていた。しかし当時と比べると電子時代の情報量は格段に増加している。情報もウェブサイトからブログ、最近はtwitterと、羅針盤のない宇宙を漂うかのように様々な形式で発進され続けている。有益なものから石ころに過ぎないものまでまさに玉石混交の様相を呈している。情報の渦のなかに投げ出されて、どのような形で向き合っていけばよいのだろうか。そう、タイトルにあるように情報を捨てる技術が肝要となってくる。
本書は著者の諏訪氏の実際の経験を踏まえて書かれている。10年前ということで情報ツールの章のソフトやOS、フロッピーディスク、MOなど今読むと当時の懐かしい香りが漂ってくる。もちろん情報は電子データだけではない。書籍や専門誌、論文、雑誌、新聞など見渡すと多種多様である。こうした情報をすべて取り込もうとするのは無理がある。本書の第1部では不要な情報を初めから「捨ててかかる」方法を示してくれる。情報に安易に手を出すことなく、初めから捨てるつもりで臨むべきという。もっとも本当に価値のある情報だけをピックアップするにはある程度の眼力を養っておかなければならない。外国の情報は英語だけで十分というのは、ちょっと乱暴かもしれないが学問的な分野ではもっともなことである。インターネットのアクセスリミットは10分とすれば、無駄な時間とエネルギーを節約することができる。
パソコンであればどんどんデータをハードディスクに蓄積していける。マウスのクリックひとつで簡単に削除することで捨てることは可能である。しかし、いつか必要なときが来るのではないかと思い悩みながら、なかなか捨てることができない。そこで捨てる勇気をもつ。パソコンのハードディスク内、ファイリングキャビネット、本棚・・・それらの容量は有限であり、どんどん増え続ける。自分自身もこの本のアドバイスを手掛りに少しずつ捨てる勇気を出していかなければ。
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