1914年の予言に関する新聞記事2018/09/08 12:14

国会図書館では過去の新聞記事の検索をできる聞蔵Ⅱビジュアルが利用できる。これまで海外から発信された情報を紹介する形で新聞記事にノストラダムスが取り上げられることが何度かあった。そのなかでもっとも古いと見られる記事が東京朝日新聞1914年12月6日号である。記事のタイトルは「「人が飛ぶ時に」予言に胸を傷めて居る欧州の民」とある。(画像参照)そのなかでいろいろな予言について取り上げられているがノストラダムスの名前(ノストラダマスと記されている)も見られる。ここにその部分を引用するが読みやすいように適宜書き換えを行ったことをお断りしておく。


フランスではノストラダマスやその他の予言に心を腐らせている。二十三人の予言を総合すると、假令(よし)一時の勝利をフランスが得るとしてもついには全市灰燼となるというに帰する。ドイツの婦人カサリン、エメリッチは悪魔がパリーの地下に爆弾を埋めた幻を見たといって彼女は「パリーが足下に埋められる日は禍なるかな、火と破壊の日は近くにある」と叫んだ。しかし二十三人の予言者の言葉によれば単に滅ぼさんためではなくてエホバに武装(よそ)われた諸王が驕れる市を信仰と愛との市に清めんためであるという。然らばこのエホバに武装された王とはウィルヘルム帝を指すのであろうか。あるいはそうであろう。しかし同時にウィルヘルム帝にも等しく悪運の予告がある。

第一次世界大戦は1914年7月28日に始まり1918年11月11日まで続いた。ミシェル・ショマラによればこの大戦はあらゆる種類の予言に追い風となった。フランスは勝利の王に率いられ、ドイツ帝国の崩壊と ホーエンツォレルン家(ドイツ第二帝国の皇帝家ヴィルヘルム2世)の没落が予告された。大君侯の名のもとでフランス王政の復活とローマ教会の主権が加わった。こうした中世的な予言が1914年の早い時期に多くのパンフレットや新聞のなかで出版されたという。第一次世界大戦を予言したと解釈される四行詩として詩百篇第4巻100番を引用している。

王家の建物に天からの火が落ちるだろう
マルスの光が弱まるときに
七カ月の大戦、悪しき行いで死んだ人びと
ルーアン、エヴルーは国王を見捨てないだろう

ジョルジュ・ミノワは第一次世界大戦下の予言についてでこう述べている。
当然のごとく、第一次世界大戦もありとあらゆる予言の好餌となった。これほどの規模の出来事が、絶えず未来を凝視し続ける見張り番たちの目を免れてあるはずもない、いうわけだ。もちろん、災厄に関する予言のすべてが未曾有の大戦争を語っているのだから、それを事後に第一次世界大戦に当てはめるのはあまりのご都合主義というものだ。
『未来の歴史』(筑摩書房、2000年)586頁

上の記事の中でパリの破滅を予言したというカサリン、エメリッチは、ミノワよると「19世紀初頭には、ドイツの幻視者、宗教家アンナ=カタリーナ・エメリヒ(1774-1824)が、リュシフェルを筆頭とする悪魔たちが現れて数々の大災厄をもたらす時期として20世紀の中葉を設定した」(577頁)とある。新聞記事には他にも冒頭のポーランドの予言、マダム、レノルマンドの予言、ロシアの一農夫ヴォスイジエンスキーの予言、マイエンスの予言が紹介されており、当時のフランスにおいて古い予言を引っ張り出して現代(1914年当時)に当てはめようとする風潮が見受けられる。

タイトルにある「人が飛ぶ時に」というのは記事のなかには見られない。現在の私たちからするとなんのことかと思うが当時は航空機に人が乗って空爆するというのが従来の戦争になかった画期的なことだった。四行詩の「天からの火が王家の建物に落ちる」というのは解釈として空爆とも受け取れる。
第一次世界大戦中、航空機は実際のところ主力の戦闘兵器ではなかったが、機関銃をぞんざいに搭載した航空機同士が初めて空中戦を戦ったのも、初めて空爆が試みられたのも、このときだった。
『当たった予言、外れた予言』(文春文庫、1999)109頁

新聞記事にあるノストラダムスを含む23人の予言のソースはどこにあるのだろうか。ノストラダムス関連でその元ネタとなる本が出版されたのは1914年7月から12月の間と見られる。フランス語の本でパリ破滅を解釈したものを手元の本で調べてみたがよくわからなかった。1917年に出版された"Collection Henri Leblanc destinée à l'État. La Grande Guerre. Iconographie. Bibliographie. Documents divers. tome troisième"の予言の項を見るとDEMAR-LATOURの著作が載っている。手元にある1915年刊行のドマールの本には23人の予言についての記述はない。

ショマラが取り上げた同時期の出版本に、DEMAR-LATOUR A. : 1914-19...?? Les Prédictions sur L'Avenir Prochain de la France. (ca. 1914). (ドマール・ラトゥール、1914-19…??フランスの近未来についての予言)がある。ショマラはこの本についてこう解説している。「第一次世界大戦が勃発したときに出版されたノストラダムスの予言を含む宗教的あるいは神秘的な著者たちにより数世紀にわたって書き連ねた様々な予言を集めたもの。」なんとなく新聞記事の内容に近いと思われる。この本は手元にないのでさっそくabebooks.frに注文をしたが内容を確認するのが楽しみである。

詩百篇1-60、ナポレオンの予言詩2018/09/14 01:29

ノストラダムス予言集の詩百篇第1巻60番の四行詩は皇帝ナポレオンの誕生を詠ったものとして有名である。そしてこの詩は懐疑者からノストラダムスの予言の曖昧さを示す格好の実例を示すものとして扱われたことでも知られている。この詩のナポレオン解釈はいつごろ登場したのであろうか。ノストラダムスの大事典には1814年に出版された二冊の解釈本が紹介されているが、実際には雑誌"L'Ambigu: ou variétés littéraires et politiques"(曖昧あるいは文学的かつ政治的な寄せ集め)1805年7月20日号(No.83)にすでに登場している。

ナポレオンが皇帝の地位についたのが1804年5月であるからそれを踏まえて予言の好事家たちが1-60に目をつけるというのは特段不思議なことではない。最近ではインターネット上で様々な文献を簡単に検索することができるのでそれほど労を払わずして今までアクセスすることができなかった情報にたどり着くことができる。本当にありがたい時代になったものだ。L'Ambiguという雑誌は10日ごとに出版されていたようでそれをまとめたものが一つの巻になっている。ナポレオン解釈が載っているのは”L'Ambigu: ou variétés littéraires et politiques”, 第 10 巻、Google Booksで閲覧できる。

その133頁-137頁に「ノストラダムスの予言」という記事が載っている。冒頭には"Napoléon , premier empereur des Français prédit par Nostradamus , ou Nouvelle concordance des prophéties de Nostradamus avec l'histoire, depuis Henri II jusqu'à Napoléon -le-Grand... par F. d. S. M. J. P. B. Bellaud,... - 1806"の本からの引用が見られる。この本も今はGallicaで閲覧可能である。この本は旧来の言説に沿ってノストラダムスの伝記や予言について割と丁寧に書かれている。予言解釈は過去に当てはまる予言からナポレオンに関する予言まで時系列に沿っている。

この本が引き金となって予言解釈の絶好の対象ともいえるナポレオン予言詩群が出始めたのではないか。そして雑誌記事では、(1)フランス皇帝ナポレオン大王の到来 (2)イタリアでの誕生 (3)イギリス政府の没落 (4)イギリスに関するフランスの将来の支配、という4つのキーワードから予言詩の解釈を行っている。順に4-54、3-57、10-22、10-26、1-60、1-61、1-4、1-13、4-45、4-65、1-66の四行詩を引用しているが原文を部分的にしか示していないものもあり恣意的な感じも受ける。ここではあえて訳文はあげないが興味のある方はノストラダムスの大事典を参照されたい。

1-60の解釈については”Ne dirait-on pas que Nostradamus voyait Napoleon naître en Corse, et devoir couter bien cher a l'empire francais"(ナポレオンがコルシカで誕生しフランス帝国に高い代償を払わせるに違いないというノストラダムスの見通しは誰も言えないだろう)そして4行目に書かれた「君主というより肉屋といわれる」といった表現に疑問符?をつけている。当時ナポレオンは武運に恵まれ絶頂期であったのだから無理もないが、1814年になると戦争によってフランスの情勢が悪化し1-60が改めてクローズアップされるようになったのだろう。

ランビギュについて2018/09/16 21:23

https://blogs.yahoo.co.jp/nostradamus_daijiten
L'Ambigu ランビギュ という本に、おそらくノストラダムスの予言集の詩百篇1-60のナポレオン解釈の初出が載っていると紹介したところ、筆者の拙いフランス語の読みに対する丁寧な指摘を頂いた。細かく辞書を引いておらずざっくりとした紹介だったため、こうしたフォローは非常にありがたい。詳しくはノストラダムスの大事典 編集雑記を確認されたい。sumaruさんのノストラダムスの大事典によると正確な翻訳は次のようになるという。

ナポレオンがコルシカで生まれ、フランス帝国に高い代価を払わせる運命にあったことを、ノストラダムスは見通していたように思えないだろうか。そして彼が加わることになる社交界というのは、フーシェ家、バラス家、タリアン家、サリセッティ家、ブリュヌ家、レアル家、オージュロー家、チュリオ家、メルラン家その他多くのことである。『彼らに加わる者〔訳者注:この解釈ではナポレオン〕は、君主としてではなくむしろ肉屋として受け止められるだろう』と我らの予言者が書き記した時、その双眼には、あれらの吸血鬼ども全てが映っていたのではなかったろうか。

当時は誰も1-60のナポレオン解釈を取り上げたことがないという点ではこの訳文を見ても明らかで言わんとするところは変わらない。それを裏付けるかのように L'Ambigu 1814年4月20日号の141頁ではノストラダムスの予言が1-60のみが引用されている。L'Ambigu: ou Variétés littéraires, et politiques, 第 45 巻の「ボナパルトとブルボンについて」でこう書かれている。
ノストラダムスの予言的才能に大きな信頼を付け加えるものではないが、それでも次の予言を引用したい。それは喜んで作成したわけではないがサンチュリの第一巻にあるものですべてのエディションに載っている。
Un empereur naîtra près d'Italie,
Qui à l'empire sera vendu bien cher.
Diront avec quels gens il se rallie
Qu'il est moins prince que boucher. 


この部分は1805年の記事を意識して書かれたもので1814年4月20日号はフランス情勢を踏まえたものとなっている。当時はパリが陥落するなどナポレオン・ボナパルト側の戦況が思わしくなく、4月11日同盟軍からの条件に退位宣言に署名し、4月20日にはエルバ島に向けて出発した。ペルチエ自身はL'Ambigu のなかで強烈に反ボナパルトの姿勢を示していたのでこのときは拍手喝さいを送ったことだろう。ノストラダムスの予言が一見的中したようにも見えるがペルチエはその予言的才能に感嘆したわけではない。実は上の原文は1805年の記事のものと微妙に異なる。

そもそも4行目の trouueraは単語自体が欠落していることから注意深く転記した形跡はない。その後この解釈に追随した予言本が世に送り出されて1-60のナポレオン解釈が定着していった。アレクサンドル・ボニファスの『預言者たちによって予言されたボナパルト』やシャルル・マロの『ボナパルトの数奇な運命』がいずれも1814年に刊行されたというのはこれを裏付けるものだ。これら二冊はL'Ambigu の後から出版されたのだろう。いずれの本も冒頭に1-60の四行詩が置かれていることから現実に起こったナポレオンの退位に相当大きな衝撃を受けたと思われる。

さてL'Ambigu がフランス国内ではなくロンドンで出版された背景がどうだったのか。直接ノストラダムスに関わるわけではないが少し調べてみたので紹介したい。Gallicaの書誌情報によると完全なタイトルは「ランビギュ:残虐で面白い話の寄せ集め、エジプトのジャンルのなかの雑誌」とあり、その後タイトルは「ランビギュ、あるいはイシスの謎」(10-18号)、「ランビギュ、あるいはラ・マンチャの新ドン・キホーテ」(19-30号)、「ランビギュ、あるいは文学および政治的な話の寄せ集め」(31-526号)となっている。1802年から1818年に月3回のペースで刊行された。

これを出版したのは、ジャン・ガブリエル・ペルチエ Jean-Gabriel Peltier (1760-1825)である。ジャーナリストおよびパンフレット作家、出版者および書店、銀行家、外交官。おそらくValanjou(旧ゴノール、メーヌエロワール)の出身。ナントの船主ジャン・ペルティエ(デュドイエ)(1734-1803)とガブリエル・マリー・デュドイエの長男。父親の資本のおかげで1785年にÉtienne Carrier de Montieuと共同でパリで銀行を設立した。1787年に破産してしまいSaint-Domingueに留まっていた。パリに戻ると革命思想を一時的に支持したように思われるが1789年8月には強く反対する側にまわった。

それ以来幾つか反革命のパンフレットを発行している。パリの書店François-Charles Gatteyにより最初に編集された王党派新聞 "Les Actes des apôtres"使徒たちの行動 (1789年11月2日 - 1792年1月)の設立者および主要な編集者の一人でGatteyの書店が激減し新聞のコピーが燃やされた(1790年4月21日または5月21日)1790年6月から彼自身で(デュドイエの名のもと)刊行した。1792年9月21日に英国に亡命せざるをえなくなった。ロンドンに移り、反革命の出版「パリの最新の一覧あるいは1792年8月10日の革命の歴史物語」(1792)や「…年の間のパリ」(1795-1802)の新聞を続けた。

その後ナポレオン・ボナパルトに敵対する「ランビギュ」(1802年7月?-1818年11月)を手がける。1803年2月にはウェストミンスターで行われた裁判で罰金を課され、侮辱によりフランスから外交上の苦情を受けた。(判決は行われなかったがその後フランスのペルチエの財産は没収された)ここから「ランビギュ」のフランス国内への影響はそれなりにあったと思われる。amazonで検索すると現在もFacsimile Publisher(2015)より再版されている。ペルチエは1820年に亡命から戻り、1825年3月にパリで死去した。激動の時代に生きた波乱万丈の人生だったといえるだろう。

エリゼー・デュ・ヴィニョワのノストラダムス本2018/09/23 01:06

ノストラダムスの大事典の詩百篇第1巻64番の更新された記事を読むと、エリゼー・デュ・ヴィニョワ Elisée du Vignois の解釈が追加されているのに気付いた。これまではプレザージュの注釈のなかでベルナール・シャヴィニャールの研究書からの引用で言及されたことはあったが詩百篇の解釈を示したのはちょっと目を引いた。*7 du Vignois [1910] p.310 ヴィニョワという解釈者の名前は日本でも多少紹介されたことがある。当ブログでもノストラダムスの注釈者たちで取り上げたように渡辺一夫の「或る占星師の話」にその名前が見いだされる。

この記事を書いた当時未見だった、ヴィニョワの著した本二冊が今手元にある。(画像参照)
Elizée du Vignois : Notre histoire racontée à l'avance par Nostradamus. Interprétation de la Lettre à Henri II, des Centuries et des Présages pour les faits accomplis depuis l'année 1555 jusqu'à nos jours, Paris, A. Leclerc éditeur, 1910(ノストラダムスによって前語りされた人類史。1555年から当代までに実現した事件についてアンリ二世への書簡、詩百篇、前兆集の解釈)
Elizée du Vignois :L'Apocalypse interprétée de la Révolution d'après Nostradamus, Noyon(Oise), Chez L'Auteur, 1911(ノストラダムスにより革命から解釈されたアポカリプス) 

いずれもかなり前に入手していたが前者は本の背表紙が剥がれてしまってボロボロの状態、後者は本の内部のヤケが激しい。何年前のブックフェアで古書の補修用の道具もいくつか手に入れておいたのだが未だに修繕は手付かずのままである。そのため改めて本の中身を詳しく検討することはしてなかった。前者の本は今やインターネット上で閲覧可能となっている。エリゼー・デュ・ヴィニョワは、1880年7月5日に死去したノストラダムス注釈者アンリ・トルネ・シャヴィニーの弟子筋に当たる人物とされる。1910年の著書では全八章に時代順に並べた875篇の予言詩の解釈を行っている。

当時は第三共和制の全盛期で、ノストラダムス注釈者たちにはナポレオンの時代と比べて取り立てて激動といえるほど興味を引く事件が起きた時代ではなかった。それでもヴィニョワは1870年から1910年の近過去の予言を丹念に拾い上げて514頁の大著を発表した。巻末の索引リストも充実しており、かなりの労作には違いない。もちろん未来に当たる1914年の大戦勃発後の予言ブームには関与していない。荒唐無稽な独自解釈が多かったため現在ではあまり話題に上ることもない忘れ去られた注釈者といえるだろう。大事典でそこまで解釈を拾うというのは実直さの表れだろう。

ジェイムズ・レイヴァー著中山茂/中山由佳=共訳『預言者ノストラダムス あらかじめ語られた未来』(小学館文庫、1999)352と353頁には、ヴィニョワと注釈についてこう紹介されている。

トルネの後釜として、エリゼ・デュ・ヴィノアが、サン・ドゥニ・デュ・パンの司祭職を受け継ぎ、注釈者としての仕事も続けた。ヴィノアは、トルネがパリのサン・ブノア通りの質素な部屋を借り、後にはアドリアン・ルクレール書店の小部屋の主となった、と証言している。

南アフリカのズールーランドでのバンツー系ズールー族の皇太子の死が、11篇の四行詩に該当し、うち8~9篇がドレフェス事件に当てられたとは考えにくい。1893年、ロシア艦隊のトゥーロン港来航が、二つの四行詩にあたるとか、カシミル・ペリエ氏のエリゼ宮入りとか、ルーベ大統領の「氷のもてなし」、ジョーレ氏が議員室でおこなった質問の叙述だとか、それらが、未来を透視する予言者の努力の対象に、ふさわしいとは考えられない。


そしてレイヴァーはこう結んでいる。「時の政治に対する注釈者の先入観が、判断を誤らせていることは明らかである。」レイヴァーはヴィニョワの注釈で最も信頼できるものとして詩百篇7-11の四行詩を引用している。「王子は母の懇願を聞き入れないだろう/銀、足は傷つき、粗野で不従順で/異郷に住む母には辛い知らせがあり/500人以上の人が殺されよう」(387頁、737)原著には、見出し、年代、原詩、文字通りの翻訳、歴史的な事実、説明的な注記 と続いている。このパターンは1910年の本のなかで一貫している。ちなみにこの詩は1879年2月の出来事を詠んだものだそうである。