カミュとノストラダムス ― 2018/08/08 00:26
やさしく共存していると思われた自然、いつの時代でもそれが脅威として人間に不意に襲い掛かる場合がある。すでに1カ月が経つが、西日本豪雨は200名を超える犠牲者を生み出し避難者3万人を超える大災害をもたらした。今も片付けや復旧に努めている被災者の方々は現実のことと受け止めて前に進みだしている。人間誰しも今まで積み重ねてきたものを一瞬にして失うような無情な災害に出会う可能性があるというのを忘れてはいけない。NHKテキストの「100分de名著」2018年6月は、アルベール・カミュの『ペスト』であった。そのテーマは「生存をおびやかす不条理」となっている。
アルジェリアのオラン市に突然ペストが発生した。町は監禁様態となり、いつペストに感染するかもわからない絶望のなかで個人はいったいどのように振舞うものなのか。この小説は一種の思考実験といえる。実際に意志に反して自分自身がそういった状況に投げこまれたらいったいどうしたらいいのか、考えさせられる。ペストについては子供の頃に読んだ漫画『漂流教室』でその恐ろしさを初めて知った。この漫画で描かれているのも小学生が学校という限られた空間でペストという圧倒的な敵に対してどのように向き合うのかが描かれておりカミュと重なり合うところがあると感じる。
「100分de名著」を読む前にすでに宮崎嶺雄訳の『ペスト』(新潮文庫、1994)は入手してあった。しかし活字が小さく読みづらいこともあってずっと未読のままであった。実は『ペスト』のなかでノストラダムスについてわずかに触れている箇所があるのだ。今回久し振りに新潮文庫版を本棚から引っ張り出して該当箇所を読み直してみた。同書263頁には「市民たちが、予言というものをやたらに愛用したことをあげることができる。」とあり「・・・通常の宗教的な務めをまるで不合理な迷信に置き換えてしまっていた。」ということで迷信と等価なものとして予言を扱っている。
しかし、最も一般に珍重されたのは、むろん、黙示録風の言葉をもって、一連の出来事—その一つ一つが現在この町の経験しているものでありえて、しかもその複雑さからあらゆる解釈が許されるような一連の出来事—を予告したものであった。ノストラダムスと聖女オディールがそこで毎日のように引き合いに出され、しかもつねに、しかるべき収穫があった。それに、あらゆる予言に一貫して共通であったことは、それが結局において安心を与えるものであったということである。ひとり、ペストだけはそうではなかった。
予言の解釈が宗教に代わって人々に安心を与えるというのはどのような状況であろうか。日本において1973年の終末ブームのなかで登場したノストラダムスの予言の人類滅亡という解釈はいたずらに人々の不安感を煽っただけであった。当時は25年後にあたる1999年の絶望的な状況というのは現実味に乏しかったこともあったか、オイルショックや公害など暗い世相のなかでも多少なりとも心に余裕があったということだろう。上記の引用をみてもカミュはノストラダムスの予言について細かく触れていない。そのためカッコ書の訳注でこう紹介されている。
16世紀フランスの占星術者。1555年以後10世紀間の出来事に関する予言集を著わし、アンリ二世の変死その他、彼の予言が的中したと認めうる事実が少なくないため、今日でもなおその研究者が絶えない。
新潮文庫版の『ペスト』の初版は奥付を見ると昭和44年(1969年)であるから1973年に出版された『ノストラダムスの大予言』がベストセラーになる以前に書かれた注記と思われる。1555年以後というのは予言集の初版が出た年なので誤りではないが「10世紀間」というのは明らかに「10巻の詩百篇」の読み違えであろう。「今日でもなおその研究者が絶えない」というのがどの時点にたったものか少々曖昧である。カミュは1947年6月に『ペスト』を発表した。カミュ自身レジスタンスに参加していたようだが参照したのはマックス・ド・フォンブリュヌ博士の注釈書あたりだったか?

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