エクス・アン・プロヴァンスにおけるペスト治療 その12019/08/16 00:51

ノストラダムスといえばペスト治療に従事した医師として知られている。秘書であったジャン・エメ・ド・シャヴィニーの『フランスのヤヌス第一の顔』(1594)に収録された伝記(同書2頁)にはノストラダムスがエクス・アン・プロヴァンスで行ったペスト治療についての記述が見られる。

Arriué à Marseille, vint à Aix parlement de Prouence, où il fut trois années aux gages de la cité, du temps que la peste s'y eleua en l'an de CHRIST 1546. telle, si furieuse & cruelle, que l'a descritte le Seigneur de Launay en son Theatre du monde, selon les vrais rapports, qui luy en furent faits par nostre Auteur.
マルセイユに到着してからプロヴァンスの高等法院のあるエクスにやって来た。そこでノストラダムスは三年間その町に雇われることとなった。その時期はペストが発生したキリスト紀元1546年にあたる。それは非常に烈しく苛酷なもので、我等の著者(ノストラダムス)により作成された真実の報告に従った、ローネイの領主の「世界劇場」にその記載が見られる。(筆者訳)

まずマルセイユからエクスまでの移動はどうだったか。Google Mapで徒歩で検索をかけると距離は約30km、時間にすると約6時間半になる。これなら馬を使わなくても同日中に到着できる。「1486年に、プロヴァンスの他の地域とともにフランス領となり、1501年にルイ12世がこの都市(エクス)にプロヴァンスの高等法院(parlement)を設置した。 」(ウィキペディア)というから一応シャヴィニーの記述に齟齬はない。ただし、本当に三年間その町で雇われたのかは疑問が残る。

ノストラダムス自身は1555年の『化粧品とジャム論』(画像参照)の第一部八章(原書50頁以下)においてエクスでペスト治療に当たったときの状況を詳しく書き残している。

そこでは、ペストは五月の終わりに始まり、丸九カ月の間続いた。すべての年代の者が、食べながら、また飲みながら、これまでとは比較できないほど死んでいった。墓地は死体でいっぱいになったので、もはや埋葬するための神聖な場所は見つからなかった。(中略)世界中で、この調合薬以上にペストを予防するような薬は見つからないだろう。これを口に含んでいた者はみな身を守られたのであった。そして終わりころには、これが人々を感染から守ったことが経験から明らかになった。(中略)そこで発生したペストは非常に悪性で激しいものであって、多くの者が、神による罰であると述べていた。というのは、そこから一リーヴ離れたところでは健康だったのである。町全体がひどく汚染されて、感染した者が一瞥するだけですぐ他の者も感染したのである。(中略)患った者に薬を処方して運ばせても、十分に服用されず、口に含んだまま多くの者が死んでいった。(『ノストラダムスとルネサンス』246-247頁、伊藤和行訳を編集した)

1546年にエクスの町でペストが猛威を振るったのは事実のようで息子セザールの『プロヴァンスの歴史と年代記』(772頁B)にも当時の状況について記述している。著作の他の部分ではノストラダムスの伝記を細かく挿入しているにも関わらず、なぜかここでは父親のペスト治療についての言及がない。竹下節子訳はセザールのテクストを一部省略したエドガー・ルロワの『ノストラダムス、出自、伝記、作品』(1993)66頁をベースに簡潔にまとめた形となっている。

La cité en est tout-à-coup deshabitee & deserte. Les personnes attaintes de la fureur de ceste maladie chassent incontinent toute esperance de salut. les maisons sont abandonnees et vuides, les hommes desfigurez, forts vaincus & les animaux poursuivis : le Palais clos & ferme, la Justice en silence & desertion, Themis absente & muette, & les portefaix & sandapilaires en credit : les boutiques fermees, les arts cessez, les temples solitaires & les Prestres tous confus.
町から突然人の姿が消え、荒涼としていた。この病にかかった者はすぐにすべての救いの希望を失う。家々はうち捨てられ、老人や子供も彷徨い、役所も店も閉まり、司祭たちも当惑し、ただ棺桶屋だけが働いていた。(竹下節子『ノストラダムスの生涯』80頁)

街は突然人が住まうことなく、見捨てられる。 この病気の凶悪さを被った人々は、救済のすべての希望を追い払う。 家は無人で空いており、人びとは醜く変わり、強烈に打ち負かされ、動物は追われる:宮殿は閉ざされ、締め切られ、正義は沈黙と脱走、テミスは不在と無言、そして運搬人たちと墓守たちは信用貸し。店は閉鎖され、仕事は中断し、寺院は寂しく、司祭たちはみな困惑した。(筆者訳)

(続く)


エクス・アン・プロヴァンスにおけるペスト治療 その22019/08/16 01:18

エドガー・レオニも『ノストラダムス、生涯と作品』(1961)22頁ではセザールの該当部について省略なく英訳を行っている。

Persons stricken by the furor of this malady completely abandon all hope of recovery, wrap themselves in two white winding sheets, and give forth even while they live (unheard-of thing) their sad and lamentable obsequies. The houses are abandoned and empty, men disfigured, women in tears, children bewildered, old folk astonished, the bravest vanquished and animals pursued. The palace is shut and locked, justice silent and deserted, Themis absent and mute, the stretcher-bearers and street porters work on credit. The shops shut, arts halted, temples solitary and the priests all confused. In brief, all the streets villous, wild and full of weeds because of the lugubrious absence of man and beast for the 270 days that the evil lasted…

この病気の怒りに襲われた人は、回復のすべての希望を完全に放棄し、2枚の白い巻いたシートに身を包み、(前代未聞の)悲しく哀れな卑劣な生活をしながら生き延びている。 家は捨てられ、空っぽで、男性は外観が醜くなり、女性は涙を流し、子供たちは戸惑い、老人は驚き、勇敢な者は打ちのめされ、動物は追いまわされる。 宮殿は閉ざされ、施錠され、正義は沈黙し、捨てられ、テミス(注:ギリシア神話の法・掟の女神)は不在で口がきけなくなり、担架担い手と通りの守衛は信用で働く。 店は閉まり、手仕事は止まり、寺院は寂しくなり、司祭たちは皆困惑した。 手短に言えば、不幸が続いた270日間の人間と獣の陰鬱な欠乏のために、すべての通りは絨毛で覆われ、荒涼となり、雑草でいっぱいであった…(筆者訳)

これを読むとエクスのペストの凄まじさが目に浮かんでくる。海港マルセイユに近いこともありエクスはそれまで何度もペスト禍に見舞われてきた土地である。現代の日本ではペストという圧倒的な伝染病の恐怖を感じ取ることは難しい。しかし十六世紀フランスでは現実に原因不明の伝染病がしばしば発生し、人々の生命を次から次へと奪っていった。その対策として隔離と逃亡くらいしか打つ手はなかった。ノストラダムスは医師としてこれに果敢に立ち向かったのだ。

そのなかで薬剤師としてのフィールドワークの経験に基づいてペストを予防する調合薬を作ったようだが現実的には公衆衛生環境の改善に着眼したものだったろう。ノストラダムスはほとんど自伝的な記述は残していないが、この部分は「ペストが流行したとき、害毒に満ちた空気を効果的に追い払うことのできた香料」(『ノストラダムスの万能薬』60頁)の効用を証明するために詳述したという。『化粧品とジャム論』では猛烈な疫病を直に目の前にした当時の緊迫感が伝わってくる。

シャヴィニーの記述に戻ると、「我等の著者(ノストラダムス)により作成された真実の報告」というのは『化粧品とジャム論』の記述のことだろう。ローネイの領主の「世界劇場」とは1558年にパリで出版されたブルトン人のピエール・ボエスチュオ(別名Launay)の『世界劇場』 Le théatre du mondeを指している。初版はラテン語版で後にフランス語訳が出ている。特認の日付は1558年7月1日。翌1559年にはパリのJean LongisとRobert le Mangnyerにより再版された。

十六世紀学者のミシェル・シモナンの論文「ノートルダム、ボエスチュオ、シャヴィニーと1546年のペスト」(1983)によれば、ボエスチュオの説明はノストラダムスの『化粧品とジャム論』における証言の劣化コピーにすぎない。そのテクストはパトリス・ギナールのCORPUS NOSTRADAMUS 20: Boaistuau et Marconville : le compilateur et le plagiaire (ボエスチュオとマルコンヴィユ:編集者と盗作者)で『化粧品とジャム論』のオリジナルと『世界劇場』 pp.69-71のテクストの比較を読むことができる。

改めてGoogle Booksで公開されている1559年版(画像参照)を見ると、1546年のエクスのペスト禍の記述は『化粧品とジャム論』に依拠しているけれども、ノストラダムスの名前はどこにも見当たらない。ボエスチュオはペストの情報として自著のなかで単に編纂しただけかもしれない。セザールは『化粧品とジャム論』を見ることなく、シャヴィニーの伝記から『世界劇場』を参照して記述したのだろうか。『化粧品とジャム論』は16世紀に何度も再版されているのでそれはそれで不自然ではあるのだが。

(続く)


エクス・アン・プロヴァンスにおけるペスト治療 その32019/08/16 01:39

1546年のエクス・アン・プロヴァンスにおけるノストラダムスの実在を裏付ける文書として、市の出納係Paul Bonnin(ポール・ボナン)による1546年6月の証明書が残っている。市の会計簿と当時ノストラダムスに支払われた報酬の記録が保管されている。プロヴァンス・イストリック(画像参照)に掲載されたウージェヌ・レーの論文「ミシェル・ド・ノートルダムの書簡の断片の概要、続編」(1961年7月)217頁によると「エクス・アン・プロヴァンス市町村文書館」CC 460, f.23に次のような記載が残っている。

"M[aitr]e Micheou de Nostredame, dix écus d'or sol pour son entrée dans la convention faicte comme appert plus a plain au mandement et acquit cy produits, cy XXXVII fs [florins] VI s [sous]."
ミシェル・ド・ノートルダム師、ソル金貨の10エキュ、発注書に明らかにされたこれらの成果を得るための参入協定に対して。フローリン貨37枚。スー貨6枚。(筆者訳)

時期的なところから判断すると、エクスでペストが発生した直後にノストラダムスが「エクサン・プロヴァンスの町の役所に雇われて住民の治療にあたった」(『ノストラダムスの万能薬』60頁)ことになる。『化粧品とジャム論』の原文は以下の通り。

je seus esleu & stipendie de la cite d'Aix en Prouence, ou par le senat & peuple je sus mis pour la conseruation de la cite, ou la peste estoir tant grande, & tant espouuentable
私はエクスアンプロヴァンスの町あるいは議会や人びとに選ばれ雇われた。私はペストで汚染されて目を覆うばかりのその町の救助に努めた。(筆者訳)

ノストラダムス自身の言葉とはいえ、当時ペスト治療の名医としてすでに評判が高かったことを示している。1544年5月、マルセイユで先輩医師ルイ・セールのもと疫病と治療を研究しながら実践を積んでいた。1545年には弟のジャン・ド・ノートルダムがエクス・アン・プロヴァンスで法律家になっている。『化粧品とジャム論』(1555)の第二部にはエクスの高等法院検事(procureur)であるジャンに宛てた献辞が載っている。この要請にジャンが関わっていたという想定はそれほど突拍子もないとはいえない。

1546年6月の証明書はノストラダムスが前金で契約したことを示している。医者であってもいつペストに感染するかわからない危険と隣り合わせで現地に入ることを考えれば当然の要求といえる。これはいったいどの程度の報酬だったのであろうか。貨幣の呼び名は同じでも時代によってその価値は変わってくる。参考までにノストラダムスの遺言書に記された財産は3444エキュと10スー。またアダン・ド・クラポンヌが運河の灌漑工事のために調達した資金が8000エキュであるとされる。

240ドゥニエ=20ソル(スー)=1リーブル(フラン)とする。仮に1ドゥニエ=500円とすれば、10エキュ=240×500×10=120万円、フローリン銀貨を18000円とすると、18000×37=66.6万円、スー銀貨を6000円とすると、6000×6=36000円。合計すると190.2万円となるがこれはあくまで目安に過ぎない。同様に計算すると財産は4億1334万円となり相当莫大な金額となる。ちなみに運河の資金は9億6000万円となりオーダー感としてはそんなものか。
(了)