シュヴィヨ版とシャヴィニー版の比較2017/03/15 22:48

sumaruさんが「1611年版が先行すると断言しようとするとそれはそれで不自然に感じられる点が出てくるのも事実です。」とコメントした根拠を示してくれた。それはそれで非常にありがたく多角的な視点で物事を見るという点で有意義である。まっさらな目で検証したいと思い、改めてファイルを作って百詩篇の補遺と六行詩集についてテクストを比較してみた。六行詩集についてはそのソースが不確かであるのでまずは補遺テクストについてテクストの変遷を探った。補遺篇の百詩篇11巻、12巻のソースは1594年に出版されたシャヴィニーの『フランスのヤヌス第一の顔』が初出である。

テクストの比較においてはシュヴィヨ版、デュ・リュオー版、1605年版、偽1568年版を使用した。それらのテクストを比較して判明したことは、シュヴィヨ版とデュ・リュオー版はそれぞれ個別にシャヴィニーのテクストを転記したものを編纂している。その結果、シュヴィヨ版が1605年版の百詩篇11巻、12巻テクストを参照したというのはあり得ない。1605年版はデュ・リュオー版を参照して独特の編纂を行っている。偽1568年版は1605年版を参照し、誤植を修正した形跡が見られる。様々な例を挙げることができるがここでは百詩篇12巻65番と69番を取り上げることにする。

12巻65番で注目すべき異文は4行目。シャヴィニー版:Gyrond. Garon. ne シュヴィヨ版:Gyrond. Garond. ne デュ・リュオー版:Guirond. Guaron. ne 1605年版:Guirond. Guaron, ne 偽1568年版:Guirond. Guaron, ne シャヴィヨ版はGyrond.をそのまま転記しているがデュ・リュオー版はGuirondと改変しており、1605年版と偽1568年版もこれをコピーしている。同様にシュヴィヨ版はGaron.をGarond.と改変しているが、デュ・リュオー版はGuaron.と改変しており、1605年版と偽1568年版もこれをコピーしている。1605年版はデュ・リュオー版と異なる独特の編集として2行目にコロンを使う傾向がある。

12巻69篇では1行目の冒頭。シャヴィニー版:EIO V A S シュヴィヨ版:Eiouas デュ・リュオー版:EIO V A S 1605年版:E IO VA S 偽1568年版:E I O V A S シュヴィヨ版は独自の校訂を行っている。デュ・リュオー版はVASの文字間隔もシャヴィニー版を真似ている。1605年版や偽1568年版はそのあたり無頓着に編集されている。4行目は未完で終わっており、シャヴィニー版の末尾にアスタリスクが付いている。シュヴィヨ版とデュ・リュオー版は同じくアスタリクスで終わっているが1605年版と偽1568年版はアスタリスクがなくなっている。ここからも1605年版が先行していることはありえない。

細かく見てみると「シュヴィヨはシャヴィニーを直接参照していた根拠が希薄です。」という見解は支持できない。順にコメントしておく。「予兆詩集を再録していない。」もともとpresagesを予言集に組み込むといった発想がなかったのはおかしなことではない。これを新たに組み入れたのはデュ・リュオー版である。「1605や1628と違い、百詩篇本編にシャヴィニーの異文が皆無」本編の参照元が別にあるのであれば異文を取り込む必要性はない。シュヴィヨ版は本編について1600年前後のリヨン版を底本としている。これもデュ・リュオー版があえてシャヴィニーの異文を取り込んだだけのこと。

1605年版が先行したなら11,12巻はそこから取れる 」これは上記で検証したようにシュヴィヨ版が1605年版を参照した可能性は著しく低い。「6巻補遺篇は2回出てくるので、見落としたというのは不自然。」これについては敢えて取り込まなかった理由は不明だが、逆に1605年版を参照しているのであれば6巻100番や12巻56番を含めないのは極めて不自然といえる。「痕跡といえそうなのは7巻補遺篇から重複分を省いたことくらいでしょうか? 」これも1605年版を参照しているのであればナンバリングを踏襲していないのは不自然といえる。よってシュヴィヨ版が独自に編集したものと考えられる。

結論として、テクストの出現の順番として、シュヴィヨ版、デュ・リュオー版、1605年版、偽1568年版であることは間違いないと思われる。これは以前紹介したように予言集のマテリアルの変遷からも裏付けられる。そこに六行詩のテクストでも同様の検証が必要となるのであるが、六行詩に関してはどのテクストが先行するものかはっきりしていない。検討材料としては、フランス国立図書館の手稿FR4744、モルガールの予言、シュヴィヨ版、デュ・リュオー版、1605年版の関係、あるいはアンリ四世への献呈書簡について探ってみたい。

六行詩集のテクスト比較2017/03/20 22:14

17世紀の初頭に出現したと想定される六行詩集のテクストについては不明な点が多い。それでも現存のテクストを比較することで見えてくるものがある。比較対象としたのはフランス国立図書館の手稿FR4744、モルガール版、シュヴィヨ版、デュ・リュオー版、1605年版の5つである。テクスト比較から確実にいえることは、デュ・リュオー版がシュヴィヨ版をほぼ忠実に転写している、1605年版はデュ・リュオー版を参照しているが誤植あるいは独自の改変が見られることである。つまり六行詩集のテクスト分析からも1605年版予言集がシュヴィヨ版に先駆けて出版されたことはあり得ない。

手稿FR4744は、1975年のダニエル・リュゾの著書で紹介されたことから六行詩集の草稿らしきものがあることが知られるようになった。現在ではGallicaでその手稿を閲覧することができる。改めてスペイン語版の原書を確認したところ、リュゾのフランス語版で六行詩手稿の前の頁に載っていた1609年10月6日付書簡が六行詩集と関係のないことに気付いた。スペイン語版では別々に掲載されており、リュゾのコメントによると、カルパントラ図書館に保管されている、1564年にプロヴァンス巡幸でサロンを訪れたときにノストラダムスがアンリ四世の王位を予言したと伝えるペイレスクの手稿である。

モルガールの予言については”Documents Inexploités sur le phénomène Nostradamus”(ノストラダムス現象に利用されなかった文書) 228-242頁を参照した。sumaruさんは「*大事典の六行詩集の記事にはモルガールの比較も取り入れてありますが、正直言ってあまり重要な版には思えないです。」とし、シュヴィヨ版との関係について「改めてそういう繋がりを垣間見られるような異文が無いかと検討しなおしましたが、そういうものは見られないように思います。」とコメントされている。実際にテクスト比較をするとこのモルガール版と手稿はテクストが非常によく一致しているが校訂箇所も見られる。

一例として六行詩13番の1行目を取り上げる。手稿:L'auenturier six cens cinq ou neuf モルガール版:L'auenturier six cens cinq ou neuf シュヴィヨ版:L'auanturier six cens & six ou neuf, デュ・リュオー版:L'auanturier six cens & six ou neuf, 1605年版:L'auanturier six cens & six ou neuf, 手稿とモルガール版で605とあるのがシュヴィヨ版以降に印刷されたテクストで606に書き換えられている。また手稿とモルガール版に特長的なのは600と5の間に&が省略されている場合が多い。他の異文から判断するとシュヴィヨ版がモルガール版を参照したというよりは直接手稿を見ている可能性が高い。

手稿FR4744は印刷されたテクストと比較すると、58篇のうち4篇(11,12,14,27)が欠落しており、ナンバリングもところどころ飛んでおり最終番号は56番である。モルガール版はシュヴィヨ版と同じ58篇である。これが意味するところは何か。単純に手稿→モルガール版→シュヴィヨ版というわけにはいかない。ここからオリジナルの六行詩の存在が想定される。1878年に出版された"La Flandre revue des monuments d'histoire et d'antiquites"19-48頁の「ノストラダムスの予言集に関する未刊行の文書 ヴァンサン・セヴ―ボーケールとその見本市」のなかに興味深い記述が見られる。

ヴァンサン・セヴがノストラダムス文書を受け取ったとしている六行詩集の本当の著者は誰なのか。実は六行詩集のオリジナルなるものが132篇あり、そのうちの58篇が予言集のテクストとして印刷されたという。オリジナルはアミアンの司教座聖堂参事会員であったバルボトーBarboteauが認めて保管していたらしい。オリジナルの手稿のことが明るみになったのは1694年でバルボトーの書簡によるという。エドガー・レオニによると、ジョベールが1656年の著書のなかで六行詩のオリジナルの手稿132篇をアミアンの司教 M. Barbotteal(バルボットー)のライブラリーで見たことがあると主張していた。

この話の信憑性については検証するすべはない。バルボトーはパリ生まれでフランソワという名であった。1602年6月3日にアミアンの大聖堂の司教座聖堂参事会員になり、1636年に聖歌隊員、1642年に憲兵隊将校になり、1660年11月23日に死去した。オリジナルの六行詩を書いたとすれば1600年頃のことか。手稿とモルガール版には1600年の記載が見られる。またジョベールがバルボットーのライブラリで132篇の六行詩を見たという主張も生前にあたるため一応は整合が取れているようにも思える。そうすると手稿FR4744とモルガール版はこのオリジナルを見ていた可能性もあろう。

六行詩の表題と献呈書簡2017/03/21 22:10

六行詩のテクストを比較するだけではその位置づけは難しい。手稿FR4744とモルガール版、シュヴィヨ版の六行詩にはそれぞれ異なる表題がついている。そこを手掛かりに六行詩の顛末を探ってみたい。手稿の表題は以下の通り。原文に見られる改行は無視している。Predictions de Me Michel Nostradamus pour le siecle de l'an 1600, presentees au roy Henri 4°au commencement de l'annee par Vincent Aucane de Languedoc. 1600年の世紀に対するミシェル・ノストラダムス師の予言。ラングドックのヴァンサン・オケーヌによりこの年の初めに国王アンリ四世に献呈されたもの。

モルガール版の表題は以下の通り。原文に見られる改行は無視している。PROPHETIES DE MAISTRE Noel Leon Morgard, professeur es Mathematiques presentees au Roy Henry le Grand, pour ses estrennes en l'an 1600. contreuenant plusieurs predictions sur l'alliance d'Espagne.
1600年の新年に向けて国王アンリ大王に献呈された、占星術の先生であるノエル=レオン・モルガール師の予言。スペインの同盟に関する多くの予言に反したもの。仮にこの二つのテクストがオリジナルの六行詩を直接参照したとしても表題についてはかなり自由に脚色されている。

共通のキーワードは1600年、アンリ四世に献呈されたという点である。手稿ではこれがノストラダムスの作品でヴァンサン・オケーヌが献呈したと書かれている。モルガール版ではオリジナルを剽窃して自分自身の予言に帰しておりノストラダムスの名は出てこない。先にも書いたようにモルガール版は現行版と同様に58篇の六行詩を取り上げており最終頁には六行詩のなかに出てくる語彙の解説を掲載している。オリジナルの手稿に書かれていたのか、あるいはバルボトーから直接聞き出したものなのか判然としないが大きな特長といえる。さて、いよいよシュヴィヨ版の検討に入ろう。

シュヴィヨ版の表題は以下の通りである。原文に見られる改行は無視している。Recueillies des Memoires de feu Maistre Michel Nostradamus, viuant Medecin du Roy Charles IX. & l'vn des plus excellens Astronomes qui furent iamais. Presente au tres grand Inuincible & tres clement
Prince Henry IIII. viuant Roy de France & de Nauarre. Par Vincent Seue de Beaucaire en Languedoc, des le 19. Mars 1605. au Chasteau de Chantilly, maison de Monseigneur le Connestable. この世紀のいずれかの年のための驚くべき予言。これ以上ない最も優れた天文学者の一人であり、シャルル9世の常任侍医を務めた故ミシェル・ノストラダムス師の回想より集められたもの。1605年3月19日に大元帥閣下の邸宅たるシャンティイ城にて、偉大にして無敵、さらに寛大なるフランスとナヴァルの王アンリ四世に対し、ラングドック、ボーケールのヴァンサン・セヴによって献呈された。

手稿とモルガール版の表題に比べるとかなり内容が豊かになっている。六行詩をノストラダムスに帰し、献呈した人物、日付、場所が具体的に記されたものに仕上がっている。さらにシュヴィヨ版では表題のみならず献呈書簡が六行詩集の内容について言及している。1867年に出版された"Histoire de Beaucaire depuis le XIIIe siecle jusqu'a la revolution de 1789"(13世紀から1789年の革命までのボーケールの歴史)の180頁にヴァンサン・セヴに関する記述が見られる。それによるとセヴはサロンの著名な占星術師のライバル、後継者として1608年にアンリ四世へサンチュリの撰集を呈したという。

それはノストラダムスと矛盾することのないスタイルで曖昧な詩句であった。それらは師の予言集に続く形でRiomリオンで出版された。またセヴはボーケールへの郷土愛から4部編成の手稿を残したがこちらは出版されることがなかった。第一部の「ボーケールの建設」のなかではいくつかの有益な記述に紛れて大雑把な剽窃や占星術上の夢想が見いだされる。こうしてセヴはラングドックのノストラダムスと称していたらしい。おそらくセヴはオリジナルの六行詩から、あるいは手稿とモルガール版より剽窃して現行版の六行詩集を取りまとめ、その序文として書簡を作成したのではなかったか。

ピエール・シュヴィヨはリオンで印刷されたセヴの六行詩作品に目をつけて予言集に取り入れたと推測される。マリオ・グレゴリオの分析から、シュヴィヨ版では予言集の正編のテクストの底本として1597年に出版されたブノワ・リゴーの後継者たち版を利用したと考えられる。sumaruさんのコメントにあったセブの書簡にある二巻本とは、予言集のセザールへの書簡、百詩篇1巻~7巻を含む第一部とアンリ二世への書簡と百詩篇8巻~10巻を含む第二部を指していると見るのが表紙の関係からも自然であろう。1597年というのは単に予言集の版本を指したものでそこにpresagesが入り込む余地はない。

セヴが先行した素材をもとに六行詩のテクストを編纂したとすれば、手稿FR4744と一致する異文、モルガールの選択した58篇という詩篇の数を取り込んだという点で何とか辻褄があう。しかしながら、いかんせん物的な証明を行うことが難しいため、現時点では一応仮説の域を出ていない。先に引用した「ボーケールの歴史」によれば、19世紀当時セブの子孫がボーケールに存命しており、セブのオリジナルの手稿を大切に伝えているという。もしもこれらのオリジナル手稿が現在も無事でそのなかに六行詩と献呈書簡が含まれているとすれば一気に謎が解明するのだけれども。