ジャン・ゲローの日記 ― 2008/01/04 23:39
ノストラダムスの伝記は秘書のシャヴィニィと息子のセザールの書いたものが同時代人の証言といえるものだった。しかし今日ではエドガー・ルロワの実証的なアプローチのおかげでいくつかの誤りと意識的な粉飾が明らかになった。彼ら以外の同時代の証言としてよく引用されるのがリヨンの毛織物商人でカトリック教徒である『ジャン・ゲローの日記』である。1555年、ノストラダムス予言集の初版が刊行された直後にパリの宮廷からの召喚という栄誉を受けた。その旅の途中にリヨンに立ち寄ったようでゲローが状況を記録してくれている。宮下志朗氏の『パリ歴史探偵術』には何故かカッコ書きで1550年と注釈しているがこれはあり得ない。
[1550年]サロン・アン・プロヴァンスのミシェル・ド・ノートルダムなる占星学者が当市に立ち寄った。彼は手相占い・数学・占星術に造詣の深い人物であって、過去のことを語るのみならず、未来に関しても、特定の人々について重大なことがらを予言し、人の心を透視する。そして宮廷におもむいて国王に意見を求められると、陰謀がめぐらされていることが危惧されますとも答えたという。国王陛下が8月25日以前に首をはねられる危険が大いにございますといったらしいのだ。(『パリ歴史探偵術』49頁)
宮廷に赴いたのは1555年のことで、7月14日にサロンを出発してパリに到着したのが8月15日。そうしてパリを去ったのが9月29日とされる。竹下節子氏の『ノストラダムスの生涯』105頁には「(ノストラダムスは)8月25日までに打ち首にされると心配していた」とリヨンの年代記作者の記録に残っているとある。ラメジャラーの『ノストラダムス予言全書』57頁にも同じ記述があるがルロワの本の83頁がソースであろう。ご覧のように国王陛下の首がはねられる危険なんて一言もいっていない。国王に呼ばれたもののどういう接見になるのか、本当に無事にサロンに戻ってこられるのか心配していたのである。
日記が書かれた時期が5月20日と7月27日の間というのはパリへの旅程と合う。イアン・ウィルソンはリヨンに到着したのが7月24か25日と推定している。フランス文学者の宮下氏がどうしてこうした創作めいた紹介を行ったのか不思議でならない。
[1550年]サロン・アン・プロヴァンスのミシェル・ド・ノートルダムなる占星学者が当市に立ち寄った。彼は手相占い・数学・占星術に造詣の深い人物であって、過去のことを語るのみならず、未来に関しても、特定の人々について重大なことがらを予言し、人の心を透視する。そして宮廷におもむいて国王に意見を求められると、陰謀がめぐらされていることが危惧されますとも答えたという。国王陛下が8月25日以前に首をはねられる危険が大いにございますといったらしいのだ。(『パリ歴史探偵術』49頁)
宮廷に赴いたのは1555年のことで、7月14日にサロンを出発してパリに到着したのが8月15日。そうしてパリを去ったのが9月29日とされる。竹下節子氏の『ノストラダムスの生涯』105頁には「(ノストラダムスは)8月25日までに打ち首にされると心配していた」とリヨンの年代記作者の記録に残っているとある。ラメジャラーの『ノストラダムス予言全書』57頁にも同じ記述があるがルロワの本の83頁がソースであろう。ご覧のように国王陛下の首がはねられる危険なんて一言もいっていない。国王に呼ばれたもののどういう接見になるのか、本当に無事にサロンに戻ってこられるのか心配していたのである。
日記が書かれた時期が5月20日と7月27日の間というのはパリへの旅程と合う。イアン・ウィルソンはリヨンに到着したのが7月24か25日と推定している。フランス文学者の宮下氏がどうしてこうした創作めいた紹介を行ったのか不思議でならない。
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