超能力事件クロニカル2020/11/21 23:45

PCを新しく買い換えての初めての投稿である。アクセス履歴を見るとまったく更新がないにもかかわらず何人か訪れてくれているようで申し訳なく思う。さてノストラダムスの大事典 編集雑記によると、このたび『昭和・平成オカルト研究読本』が増刷されたという。どの記事も調査が丹念に行き届いており、オカルト本ファンから見ても情報が満載で初版が売り切れるほど人気があったというのもよくわかる。増刷の際に一部修正されたところがあるというから誤記などきちんと訂正する姿勢には好感が持てる。ノストラダムスに関してはsumaruさんの書いたなかで気になったところをこのブログに書いたことがあったのだが、今回それを参考にして修正されたというのは驚いてもいるし、とても光栄なことと感じる。最近はテレワークで本屋に行く機会もめっきり少なくなったので、増刷の版がすでに店頭に出ているのかわからないが見かけたら購入しておこうと思う。

最近、やはりsumaruさんが「ノストラダムス」の項を執筆した『超能力事件クロニカル』を読んだ。ASIOSは以前も似たような体裁で『UFO事件クロニカル』を出版している。どちらも子供のころに見たり聞いたりした話が満載で懐かしさを覚える。さらにその構成が当時の状況の概要とその後の展開についても綿密な調査がされているのでモヤモヤしていたものが解消されて読後感がすっきりする。子供のころはそれこそメディアリテラシーなるものはなかったので玉石混合の超能力に関する情報を雑誌やテレビで見て信じていたものだった。『超能力事件クロニカル』もこれまで見聞きしたことのある超能力ネタが実はどのようなカラクリであったかを余すところなく描き出している。

超能力者のなかに、いわゆる予言者といわれる人物を含めているのは少々意外な感じがする。確かにノストラダムスなんかも未来の出来事をバンバン当てる超能力者と紹介する本もないではないが、私見ではこのカテゴリーにはちょっと当てはまらないのではないか。sumaruさんの執筆したノストラダムスの章を見ると、冒頭にゲームのキャラクターの話が置かれている。昔ながらのノストラダムスファンではあるが、ゲームや漫画についてはほとんどフォローはしていない。が、ノストラダムスと聞いていまの若い人が本当にこのゲームを思い浮かべるのか訝しい。ただ、例の1999年からすでに21年もた経ってしまった現在ではそういうふうになってしまうのも無理はない。

内容については特に間違い探しをしようとも思わないのだが、新しい情報を盛り込もうとして少々突っ込み不足もいくつか見受けられる。例えば、ノストラダムスの学生時代について186頁では「フランスでは、この時期の足取りを霊媒師から聞いた話で再構成した者もいるが、・・・」とある。読者からするとそれって誰がどんな話をしているのだろうかと興味が湧く部分でもあるのだが、そこをスルーはいささかフラストレーションになる。本来は「1970年代の超能力事件」の章に置かれているのだから話の中心は五島勉の『ノストラダムスの大予言』でなければならない。それでなければエドガー・ケイシーが「1940年代以前の超能力事件」におかれているように16世紀の超能力事件としなければならない。そうした意味でもノストラダムスの本人の伝記の虚実というよりは五島勉が1999年について最終的にどう語っていたかという部分は外せなかったのではないかと思う。

最後の部分の「ノストラダムスが英語圏・仏語圏ではルネサンス期文化人として再評価されつつある」というのも少し偏った見方ではないだろうか。ドイツのエルマール・グルーバー、スウェーデンのアンナ・カールステットやロシアのアレクセイ・ペンゼンスキー、そして日本の岩波書店の2書などいろいろな国でルネサンス人として評価されつつある。ノストラダムスが『モンスト』のキャラでしか顧みられないのが本当のことで、そこに現在の日本におけるノストラダムスを収斂するというのは、ノストラダムスのオールドファンとしては些か寂しさを感じるところではある。

再評価をめぐる雑感について2020/11/25 21:16

本ブログで久しぶりに記事を投稿したところ早速sumaruさんのノストラダムスの大事典 編集雑記で丁寧なコメントをいただいた。まずは、本のタイトル『超能力事件 クロニクル』や『UFO事件 クロニクル』の表記を間違えてしまったことをお詫びします。下書きのメモ帳のタイトルはクロニクルになっているのでちゃんと認識していたはずだが手が滑ったとしかいようがない・・・

再評価をめぐる雑感のなかで「英語圏・仏語圏では」という記述についての背景を説明されている。そもそも、これが文章の「てにをは」レベルの話であるのは十分承知している。ノストラダムスが英語圏・仏語圏ではルネサンス期文化人として再評価されつつある」というのも少し偏った見方ではないだろうか。と書いたのは「では」という言葉に引っ掛かったためだ。読み手からすると他の言語圏ではそういう評価がまったく行われていないとも読めてしまう。これが読者に対するミスリーディングにつながるのではないかと気になったのだ。sumaruさんは「ただ、私の記述は、あくまでも「その後がほぼ続かなかった」ことへの懸念から出たものです(「日本で例えば『モンスト』キャラの元ネタ等という形でしか顧みられなくなっていくのだとすれば」)。」とも述べている。英語圏・仏語圏でも相変わらず予言解釈本は出版されており、英語圏・仏語圏のすべてのノストラダムス本がルネサンス期文化人として評価しているわけでもないので「続いている」かといえばそういうわけでもない。

言うまでもないが、sumaruさんの著書に対して「他の国にも触れて研究者の名前を出せ」とか「重版のときに修正しろ」とか要求する意図は毛頭ない。その他にも良質な研究書あるよ、という一例でグルーバーやカールステット、ペンゼンスキーを挙げたに過ぎない。私見では現在最良のノストラダムスの研究史を概観したもので、Nostradamus The Prophecies, Penguin Books, 2012 のなかのステファン・ガーソンによる「さらなるリーディングのための提案」(XIX-XXII)がある。sumaruさんのいうようにそのほとんどが仏語・英語文献であることに異論があるはずもない。ただ、そのなかにグルーバーやカールステットも含まれている。もちろんガーソンにしても日本語やロシア語の文献は読み込んでいないだろうからここには出てこない。ただ、自分がフォローアップしていない言語のものは中身を検討できないから研究書として扱わないというのはどうなのかと疑問に感じる。そうであるならば「自分の研究範囲である英語圏・仏語圏では」というように書いておいたほうが誤解がなく、わかりやすいとは思う。

ロシアのペンゼンスキーはノストラダムスをルネサンス期のユマニストと見なして様々なテーマで豊富な文献を引用して予言を紹介している。2008年に出版されたНострадамус(ノストラダムス)は偉人の伝記シリーズの610番にあたり有益な啓蒙書を出版している。この本はざっと目を通したが良書と感じた。日本で言えば講談社選書メチエのような感じだろうか。ペンゼンスキーの見方は懐疑派でもなく信奉派でもない中立派でルネサンスという時代背景を重視しており、わりと自分のスタンスに近いと感じる。ノストラダムスの伝記も学術的なもので参考になるところが多い。ペンゼンスキーは2003年にНострадамус. Миф и реальность(ノストラダムス、虚像と現実)とМиф о Нострадамусе (ノストラダムスの虚像)、2010年にはМишель Нострадамус: Эпоха великого прорицателя(ミシェル・ノストラダムス、大予言者の時代)、2016年はМишель Нострадамус. Центурии : книга пророчеств(ミシェル・ノストラダムス、サンチュリ、予言書)等の研究書を出版している。2008年以外の本は未見であるが、どれも重厚な本で図版も豊富なようなのでいずれは入手しておきたいと思っている。

モトゥールの詩2020/11/30 21:39

先に紹介した『超能力事件クロニクル』を読み進めると、ノストラダムス以外の項は近過去の超能力者を取り上げていることで、検証という意味では著作、新聞、雑誌、テレビ出演などさまざまな資料で裏付けを得ることができる。そのため文章の構成もその当時の時代背景からその後の顛末といった流れで展開されており読後もすっきりする。ところがノストラダムスは日本でブームになったということで1970年代の超能力事件に分類されてしまっている。超能力者的な予言者の扱いということであれば黒沼健が1952年に発表した「七十世紀の大予言」を皮切りに1960年代に何度もノストラダムスについて紹介している。黒沼は自著のなかで五島勉の1999年人類滅亡という解釈について1973年に新説が出たと述べている。ノストラダムスは16世紀フランスに生きた人物であるから伝記や著作に関して残された資料は少ない。そうした観点からすると確実にこうだという確証もなかなか難しいところがあるし、どうしてもモヤモヤした感じが拭えない。

特に著者にケチをつけるつもりはないのだが、公刊されたものなので気になるところを指摘しておこう。1973年の五島のベストセラー本と比べるとほとんど読まれていないであろう電子書籍版にでてくる、アヴィニョン学生時代のモトゥールの話を紹介している。もちろんこれが五島得意のフィクションであるのは自明なのだが、モトゥールについてこう解説している。

モトゥールが当時なかったというのは五島が再三語る定番ネタの一つだが、モトゥールは元々「動かすもの」を意味する語で、9世紀から15世紀を対象とするフレデリック・ゴドフロワの古語辞典にも載っているため、明らかに嘘である。(同書185頁)

ここには「嘘」と書いてあるが、嘘とは「事実に反する事柄を故意に表明したもの」というイメージである。果たして五島が故意に誤りを書いたのだろうか、それはご本人でなければわからない。当初は単に思いつきで書いた勘違いかもしれない。その後1985年に出版された『1987年 世界大戦を予告する悪魔のシナリオ』118頁で訳者の淡路誠が五島のいうモーターという解釈についてこう批判している。

つまり、ここでいうmoteurとは、ラテン語のmovere(「動かす」の意)から派生したもので、「物を動かすもの」から「モーター」という意味が、また「人を動かすもの」から「支配者、主導者」という意味が生じたことを五島氏はは知らないようだ。

おそらく五島はこの本は読んでいるだろうから、それを承知でその後もモーターの解釈を変えなかったのは事実である。五島を特に擁護するつもりはないが、自分で書いたものはたとえそれが周りから間違いを指摘されても見解の相違だと強弁したくなるのは誰しもあることだ。五島が中期フランス語の辞書を調べた上で「当時まだこの世に存在しなかったモーターという語を使ったノストラダムスは、今日の機械文明を見通していた」というのであれば嘘と言い切れるかもしれないが、そうでなければ客観的には勘違いあるいは見解の相違と見ておくのが無難である。

ちなみに1555年版『予言集』第2巻46番にでてくるモトゥールの綴りはmouteurであって、フレデリック・ゴドフロワの辞典第5巻を見たが載っていない。モトゥールの正書法がmoteurに代わったのが1568年版予言集A版あたりでオリジナルに近いとされるX版ではmouteurのままであった。moteurであれば12-14世紀の詩語が含まれた「Dictionnaire historique de l'ancien langage Francois」第七巻432頁でも「動きを与えてくれるもの」という語義を確認することができる。そのためLe grand mouteur は「巨大なモーター」ではなく「大いなる原動力」(ピエール・ブランダムール校訂/高田勇・伊藤進編訳、『ノストラダムス 予言集』1999年、163頁 または、スチューワート・ロッブ/小泉源太郎訳、『オカルト大予言』1974年、56頁)と読むのが妥当である。ではモトゥールとは具体的に何を意味しているだろうか。

リトレの辞書第3巻641頁によると、「哲学者たちは知っていながら崇拝していないが、神は第一の原因で第一のモトゥールの上に無限である」。これはグノーシス主義の影響を受けているトリテミウスの『De septem secundeis』(直訳すると『七つの第二原因について』、神に従って惑星が張り付いた球体を動かす七つの知性)のトリテミウス周期の概念に近いと思われる。同書の最後の部分にこう書かれている。「第20期は、天地創造6732年の4ヶ月目、すなわちキリスト紀元1525年6月4日に、月の天使ガブリエルが再び世界の方向を司ることになる。ガブリエルが世界を治めるのは、天地創造7086年の8ヶ月目、つまり主の年1879年までの354年4ヶ月間である。

これを参照したリシャール・ルーサの著作にある「月がその通常の運行(354年4ヵ月)を完成するため7086年8ヵ月まで支配を握り、その後太陽が支配を握る」を読んだノストラダムスが、惑星天を動かす原動力としてモトゥールという言葉を用いたのではないかと思う。「セザールへの序文」のなかで「今(1555年当時)、我々は永遠なる神の全能のおかげで月に導かれている、月がその全ての周期を完了してしまう前に、太陽が来るだろう、次いで土星が来るだろう」とある。詩百篇1-48には「月の支配の20年が過ぎて」とあるのでノストラダムスが1525年を月の支配の始まりとみていたのは間違いない。ノストラダムスの生きた時代背景を考慮することでモトゥールという謎と思われる詩句も理解できるようになるのだ。