ランビギュについて ― 2018/09/16 21:23
https://blogs.yahoo.co.jp/nostradamus_daijiten
L'Ambigu ランビギュ という本に、おそらくノストラダムスの予言集の詩百篇1-60のナポレオン解釈の初出が載っていると紹介したところ、筆者の拙いフランス語の読みに対する丁寧な指摘を頂いた。細かく辞書を引いておらずざっくりとした紹介だったため、こうしたフォローは非常にありがたい。詳しくはノストラダムスの大事典 編集雑記を確認されたい。sumaruさんのノストラダムスの大事典によると正確な翻訳は次のようになるという。
ナポレオンがコルシカで生まれ、フランス帝国に高い代価を払わせる運命にあったことを、ノストラダムスは見通していたように思えないだろうか。そして彼が加わることになる社交界というのは、フーシェ家、バラス家、タリアン家、サリセッティ家、ブリュヌ家、レアル家、オージュロー家、チュリオ家、メルラン家その他多くのことである。『彼らに加わる者〔訳者注:この解釈ではナポレオン〕は、君主としてではなくむしろ肉屋として受け止められるだろう』と我らの予言者が書き記した時、その双眼には、あれらの吸血鬼ども全てが映っていたのではなかったろうか。
当時は誰も1-60のナポレオン解釈を取り上げたことがないという点ではこの訳文を見ても明らかで言わんとするところは変わらない。それを裏付けるかのように L'Ambigu 1814年4月20日号の141頁ではノストラダムスの予言が1-60のみが引用されている。L'Ambigu: ou Variétés littéraires, et politiques, 第 45 巻の「ボナパルトとブルボンについて」でこう書かれている。
ノストラダムスの予言的才能に大きな信頼を付け加えるものではないが、それでも次の予言を引用したい。それは喜んで作成したわけではないがサンチュリの第一巻にあるものですべてのエディションに載っている。
Un empereur naîtra près d'Italie,
Qui à l'empire sera vendu bien cher.
Diront avec quels gens il se rallie
Qu'il est moins prince que boucher.
Un empereur naîtra près d'Italie,
Qui à l'empire sera vendu bien cher.
Diront avec quels gens il se rallie
Qu'il est moins prince que boucher.
この部分は1805年の記事を意識して書かれたもので1814年4月20日号はフランス情勢を踏まえたものとなっている。当時はパリが陥落するなどナポレオン・ボナパルト側の戦況が思わしくなく、4月11日同盟軍からの条件に退位宣言に署名し、4月20日にはエルバ島に向けて出発した。ペルチエ自身はL'Ambigu のなかで強烈に反ボナパルトの姿勢を示していたのでこのときは拍手喝さいを送ったことだろう。ノストラダムスの予言が一見的中したようにも見えるがペルチエはその予言的才能に感嘆したわけではない。実は上の原文は1805年の記事のものと微妙に異なる。
そもそも4行目の trouueraは単語自体が欠落していることから注意深く転記した形跡はない。その後この解釈に追随した予言本が世に送り出されて1-60のナポレオン解釈が定着していった。アレクサンドル・ボニファスの『預言者たちによって予言されたボナパルト』やシャルル・マロの『ボナパルトの数奇な運命』がいずれも1814年に刊行されたというのはこれを裏付けるものだ。これら二冊はL'Ambigu の後から出版されたのだろう。いずれの本も冒頭に1-60の四行詩が置かれていることから現実に起こったナポレオンの退位に相当大きな衝撃を受けたと思われる。
さてL'Ambigu がフランス国内ではなくロンドンで出版された背景がどうだったのか。直接ノストラダムスに関わるわけではないが少し調べてみたので紹介したい。Gallicaの書誌情報によると完全なタイトルは「ランビギュ:残虐で面白い話の寄せ集め、エジプトのジャンルのなかの雑誌」とあり、その後タイトルは「ランビギュ、あるいはイシスの謎」(10-18号)、「ランビギュ、あるいはラ・マンチャの新ドン・キホーテ」(19-30号)、「ランビギュ、あるいは文学および政治的な話の寄せ集め」(31-526号)となっている。1802年から1818年に月3回のペースで刊行された。
これを出版したのは、ジャン・ガブリエル・ペルチエ Jean-Gabriel Peltier (1760-1825)である。ジャーナリストおよびパンフレット作家、出版者および書店、銀行家、外交官。おそらくValanjou(旧ゴノール、メーヌエロワール)の出身。ナントの船主ジャン・ペルティエ(デュドイエ)(1734-1803)とガブリエル・マリー・デュドイエの長男。父親の資本のおかげで1785年にÉtienne Carrier de Montieuと共同でパリで銀行を設立した。1787年に破産してしまいSaint-Domingueに留まっていた。パリに戻ると革命思想を一時的に支持したように思われるが1789年8月には強く反対する側にまわった。
それ以来幾つか反革命のパンフレットを発行している。パリの書店François-Charles Gatteyにより最初に編集された王党派新聞 "Les Actes des apôtres"使徒たちの行動 (1789年11月2日 - 1792年1月)の設立者および主要な編集者の一人でGatteyの書店が激減し新聞のコピーが燃やされた(1790年4月21日または5月21日)後1790年6月から彼自身で(デュドイエの名のもと)刊行した。1792年9月21日に英国に亡命せざるをえなくなった。ロンドンに移り、反革命の出版「パリの最新の一覧あるいは1792年8月10日の革命の歴史物語」(1792)や「…年の間のパリ」(1795-1802)の新聞を続けた。
その後ナポレオン・ボナパルトに敵対する「ランビギュ」(1802年7月?-1818年11月)を手がける。1803年2月にはウェストミンスターで行われた裁判で罰金を課され、侮辱によりフランスから外交上の苦情を受けた。(判決は行われなかったがその後フランスのペルチエの財産は没収された)ここから「ランビギュ」のフランス国内への影響はそれなりにあったと思われる。amazonで検索すると現在もFacsimile Publisher(2015)より再版されている。ペルチエは1820年に亡命から戻り、1825年3月にパリで死去した。激動の時代に生きた波乱万丈の人生だったといえるだろう。
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