1605年版ノストラダムス予言集は偽年代版か ― 2017/02/12 22:29
ノストラダムスの大事典で「六行詩集の表題と献辞」という記事が新たにアップされたのを読んだ。異文を見ると、ピエール・シュヴィヨ版1611Aを3種類に分類しているのが目につく。これは当ブログでの紹介を踏まえたものと思われ、その対応のスピーディさに感心する。全体としては情報が整理されてまとまっているが、感想を一言でいえば1605年版ノストラダムス予言集の位置づけについての疑問である。六行詩集については以前にノストラダムスサロンでも記事をまとめたことがある。久し振りに読み返してみても当時の見解は今でもほとんど変わっていないことを再認識した。
1605年版予言集について、現在インターネット上で予言集のマテリアルがほぼ出揃っているなかで、正規の年代版という立ち位置の研究者はいるのであろうか。過去にショマラやブナズラが1605年の正当性に関するコメントをしたことがあるがきちんと実証しているわけではない。この記事ではそれを疑っている研究者として「パトリス・ギナールら」と素っ気ないが、もはや主流とはいえないのではないか。六行詩集の初出が1611年とした想定を含めて、できる限り客観性をもたせた議論を行ってはいるが、記事のなかでも言及があるように1605年を初出とするにはかなり無理がある。
大事典のブログではノストラダムスの予言集の校異についてその方法論を模索している記事があった。従来から非常に細かく各四行詩に関して校異を行っているのは素晴らしい。しかしながら、要は何を目的として校異を行うかによりその方法も異なるのではないだろうか。例えば、予言集のクリティックエディションを編纂するとか、予言集の系譜を確定するとかである。今回ちょっと気になったのでこの記事を参考に自分でも1611年頃から1650年頃の予言集のマテリアルについて一覧表に整理してみた。区分のポイントは11項目としている。
(1) 前兆集が予言集に組み込まれているかどうか。前兆集を編集するにはシャヴィニーの『フランスのヤヌス第一の顔』からコピーしなければならない。組み込まれている:〇 組み込まれていない:×
(2) 百詩篇10巻の補遺詩の表記がどうなっているか。101またはCIとあるもの:〇 1568年以来追加されたとタイトルのあるもの:×
(3) 六行詩集のタイトルに百詩篇11巻と表記があるか。表記のあるもの:〇 表記のないもの:×
(4) 六行詩集の献辞の終わりにモンモラシーの名があるか。名前があるもの:〇 名前がないもの:×
(5) 六行詩集の献辞に「国王へ」の表記があるか。表記のあるもの:〇 表記のないもの:×
(6) 百詩篇12巻の補遺詩のなかに12-56が組み込まれているか。シュヴィヨ版では編集の際に『フランスのヤヌス第一の顔』から12-56を見落としたものと考えられる。1605年版を参照していたとすればこういう脱落は考えにくい。組み込まれている:〇 組み込まれていない:×
(7) 百詩篇12巻の補遺詩の12-55に12-60と誤植のあるものがある。12-55の表記のもの:〇 12-60の表記のもの:×
(8) 百詩篇6巻の補遺詩6-100を含んでいるか。(6)と同様にシュヴィヨ版ではこの詩を見落としたか無視している。6-100を含んでいる:〇 6-100を含んでいない:×
(9) 百詩篇7巻の補遺詩1~5を含んでいるか。テクストのソースはルニョー系予言集である。シュヴィヨ版ではナンバリング1~5の5篇であるが1605年版ではナンバリング73,80,82,83の4篇である。1~5を含んでいる:〇 1~5を含んでいない:× 73,80,82,83の4篇を含んでいる:△
(10) 百詩篇8巻の補遺詩1~6を含んでいるか。こちらもテクストのソースはルニョー系予言集である。1~6を含んでいる:〇 1~6を含んでいない:×
(11) 予言撰集を含んでいるか。これを含んでいるのは一部のシュヴィヨ版とピエール・デュ・リュオー版のみである。含んでいる:〇 含んでいない:×
これを見ると、1620年代に出版された予言集のマテリアルはすべて1611A版をベースにしている。シュヴィヨ版と比べると百詩篇12-55の誤記が生じたり、7巻、8巻の補遺詩をあえて省略している等の違いは見られる。1605年版が実在していたとすれば、これらの版本にその影響が見られないということからして極めて不自然といえる。やはり1649年頃に出版されたとするほうが矛盾がない。ところで1649年頃に出版された予言集は4種類存在する。表示された年代で1649年、1568年、1605年、1611年ということになる。表紙の版画はいずれもノストラダムス二世をモチーフにしたものである。
1630年頃に出版されたピエール・デュ・リュオー版予言集は改めて予言集のマテリアルを独自に編集したように思われる。そのなかで6-100の追加、10巻の補遺詩を「1568年以降追加された」と表記変更、六行詩集のレイアウトの変更、百詩篇12-56の追加、百詩篇7巻の補遺詩のナンバリングが行われた。また献辞に「AV ROY 国王へ」が付記されたり、モンモラシーが追加されたのもデュ・リュオー版である。これだけ状況証拠が出揃っているのだから1605年版をノストラダムス予言集の新しいマテリアルの初出として殊更重要視する必要性はなくなったといえるだろう。
ところで六行詩集のルーツであるがフランス国会図書館の手稿の六行詩は全部で54篇、手稿の冒頭には書簡が載っている。その年代はなんと1609年なのだ。ただ明らかに六行詩と筆跡は異なる。シュヴィヨ版の六行詩のマテリアルはモルガールの著作からではないかと睨んでいる。54篇の六行詩集(ナンバリングは56番)に4篇を追加し1610年頃に出版した。それをシュヴィヨが予言集に取り込んだのではなかったか。マテリアルの拾い集めという観点からすると手稿から編集したというよりどこからかテクストを拝借したとみるのが無理がない。このあたりは今後の実証的な検証が必要となる。
ノストラダムスの光 ― 2017/02/15 00:23

上記のブログに「妖怪人間とノストラダムス」というテーマで取り上げられている。それによると、『妖怪人間ベム大全』(2007年4月、不知火プロ)という本の70頁の1968年版第13話「ミイラの沼」の脚注のなかでノストラダムスへの言及がある。
絵コンテには千年に一度、金星の光を反射した月の光のことを「ノストラダムスの光」と呼んでいた。それについては特に説明もなく、当時の流行を反映したものだと思われる。
もう少しこの話の背景を詳しく知りたいと思い、図書館で該当部分を読んでみた。「ミイラの沼」のあらすじのなかにこう書かれている。「・・・月の光に照らされて呪いが解けたミイラたちは、仲間の発掘を始め、いまでは半分近く復活、あとは王を復活させるだけだ…」「妃を中心に、王復活の儀式が始まった。金星の光を反射した月、それは千年に一度の現象(※2)であり、その月に向かって呪文を唱える妃。すると、祭壇に乗せられた王のミイラに、月の光が照射され、なんとミイラとして復活したのだ。」このなかの(※2)の脚注が上のコメントである。本編のなかではこの呼び名は出ていない。
五島勉『ノストラダムスの大予言』が刊行されたのが1973年11月であるからそれより5年も遡る。ノストラダムスの名前がそれほど一般的に知られていなかった時代にどうしてこのような名称が付けられたのだろうか、このブログを読んでずっと疑問に思ってきた。そもそも「ノストラダムスの光」というキーワードはこれまで見聞きしたノストラダムス本のなかに一切見られない。この回の放送日は1967年12月30日とあるから少なくとも渡辺一夫、黒沼健、澁澤龍彦らによる紹介はすでになされていた。また海外ものではカート・セリグマン、ジェス・スターンの邦訳にも簡単に触れられている。
日本でノストラダムスの名前が活字として登場したのはいつ頃であろう。いろいろと調査を進めていく中でノストラダムスといえばゲーテの『ファウスト』をもって語られるものが多かった。『ファウスト』の日本語訳が初めて出版されたのは1904年(明治37年)の高橋五郎訳『フアウスト』らしい。その50頁には「此の神秘なる法術書、ノストラダマス師の手ら著はせる者」とある。これが日本で初めての登場なのではないか。その後も1913年(大正2年)の森林太郎(鴎外)訳『フアウスト第一部』の「ここにノストラダムスが自筆で書いて、深秘を傳へた本がある」が有名どころである。
次々に『ファウスト』の翻訳は出版されており、ノストラダムスの名前も見ることができる。そのため初期のノストラダムスを紹介する本のなかでは必ずといっていいほど『ファウスト』への言及がある。
1943年 吉岡修一郎 「占星術と天文学との関係、その歴史」345頁 in『天界269』
1947年 渡邊一夫 「ある占星師の話」30頁 in 『人間』昭和22年11月号
1961年 澁澤龍彦 「星位と予言」142頁 in 『黒魔術の手帖』
1963年 門馬寛明 「18. ルネッサンス初期の占星術界」148頁 in『西洋占星術』
1943年 吉岡修一郎 「占星術と天文学との関係、その歴史」345頁 in『天界269』
1947年 渡邊一夫 「ある占星師の話」30頁 in 『人間』昭和22年11月号
1961年 澁澤龍彦 「星位と予言」142頁 in 『黒魔術の手帖』
1963年 門馬寛明 「18. ルネッサンス初期の占星術界」148頁 in『西洋占星術』
本題に戻ると、「ミイラの沼」は『ファウスト』のノストラダムスの関連部分に非常に近いキーワードが見られる。「おお、あふれる月の光よ、」「月は光を隠す―あかりが消える!」「ノストラダムス自筆の、この神秘に満ちた本は、おまえの道案内に十分ではないか」「わしの招きよせた霊よ!姿をあらわせ!」(いずれも高橋健二訳)ここから「ミイラの沼」が『ファウスト』の霊を呼び出す箇所をモチーフに創作されたストーリーではないかと考えられる。残念ながら千年に一度というキーワードは見つけられなかったが、月の光に照らされて霊を招きよせるというプロットは十分共通性が認められる。
なお、1928年の青木昌吉『ファウスト註釈』15頁は、おそらくまとまったノストラダムスの人物紹介の初出と思われる。念のためここに引き写しておこう。読みやすいように適宜現代仮名遣いに修正していることをお断りしておく。
Nostradamusは本来Michel de Notre-Dameと名乗った星占学者である。この人は1503年にフランスのProvenceのSt.Remiに生まれた。彼は医者として好評を得た後専ら星占術の研究に従事し、1555年 Les propheties de Michel Nostradamusという表題で韻の押してある四行の詩の詩集を公にした。この詩集は世人の耳目を聳動(しょうどう)した。フランス王Heinrich II.が逝去してこの詩集に含まれている神秘的予言が的中したように思われたのでこの詩集の予言的価値を信ずるものが多くあった。彼はKarl IX.の侍医に任命された後にも予言を公表することを続けたが彼の説によると将来を予知するには星座の形勢の研究許りでは足りない星座の知識に加えるに預言者(Seher)の才能がなければならぬがこの才能は神様が僅かな選ばれた人にのみ賦与するものである。彼は1566年に死んだ。
『「若きゲーテ」研究』に見るノストラダムス ― 2017/02/17 23:39

先の記事でゲーテの『ファウスト』を調査している途中で『「若きゲーテ」研究』という本をGoogle Booksで見つけた。奥付は、昭和9年(1934)1月25日発行 著作者 木村謹治 発行所 伊藤書林。表題に「五百部限定版」とある。学術研究者向けの専門書といった趣きである。ダウンロードしてみるとなんと960頁の大著。著者は東京帝国大学教授の文学博士で、緒言によると『若きゲーテとその時代』なる表題で昭和4年から6年にかけて東大文学部で行われた講義の原稿をまとめた。ノストラダムスに言及のある『ウルファウスト』の部分は大正13年秋の講義原稿をもとに改稿したものだ。
ウルファウストとは聞きなれないが最初の形におけるゲーテのファウストを指す。非常に専門的で、表記が歴史的仮名遣いを使っていることもあり、とても全部に目を通すことはできない。参考書目を見るとドイツ語の研究書ばかりが12頁にわたりずらりと並んでいる。当時は国内での先行研究が乏しかったためだろう。幸い本の末尾に索引がついているのでNostradamusに関わる部分を参照することができる。『ウルファウスト』の10箇所でノストラダムスの名前が見いだせるが、どのように扱われているのであろうか、ここに書き写しておく。(一部漢字の書き換えを行っているのをお断りしておく)
問題はファウストの自然とノストラダムスの神秘書との関係である。切なる自然への憧憬に続いて、何うして突如としてこの秘書がファウストの念頭に浮かび上がって来たのであるか。(851頁)
ファウストが自然への憧憬の念をノストラダムスの秘書に移した動機として、コリン氏は以上のようにSage(注:伝説)に対する詩人の態度にその原因を帰すると共に、他方に於ては詩人が『自然』の内に含まるる概念を巧みに利用したことを挙げてその動機を是認しようとしている。即ちノストラダムスの『魔書』の中に含まれる天文或いはアルヒミーも、ゲーテの当時の意味する自然と並んで同じく大きな意味の自然中に入るべきものであるというのである。(855頁)
そのモティーフをこの言葉に結合せしめようとする学者もあるが、それが必ずしも必要でない事はコリンの云うが如くである。この『逃れよ、いざ』の句と共に、ノストラダムスの書を新しき工程の友として選ぶ事が続くのであるが、それは彼が第一段の最後に於て定めた目標に至るべき手段として取られた第一階梯である。・・・この工程の第一歩に於てノストラダムスの秘書を手にしたことは非常に興味がある。・・・故にこの際彼が手にとったノストラダムスの書は、彼のたましいの相を假托する方便の書にすぎない。(856頁)
故に既にこれまで幾度も読んで熟知しているノストラダムスの書といえども、かつてはその『干からびた思索』によっては、何等の解決も理解ももたらさなかったのであるが、今やその中に含まれる符号も『聖なる』力を以て彼の目に新たに映ってくる。・・・例えばシューレルはファウストがノストラダムスの書を手に入れたのは一体何時であるかという疑問を重大に取扱っている。彼の見るところでは、この第三段の独白はファウストがこの書を初めて開くのであることを予定している。(858頁)
勿論ノストラダムスの秘書を点出し来るところに詩人の伝説的材料に対する注意を見るべきであるが、この秘書によって初めて霊の降出があるのではなくして、自然に目覚めたるファウストのたましいが、今や万象の中に霊性なるものの存在を認識し得る確信が生れ、そこから自ら予想されるBeschwoerung(注:召喚魔術、祈祷)である。故に彼はこの秘書を未だ開かぬ中に既に自己の周囲には多くの霊が近づきただようていることを感ずる。(863頁)
そして彼はノストラダムスの秘書を開く。彼が初めて見たのはマクロコスモスの表号である。(865頁)
ここで意味される賢者はノストラダムスを指しているが、ゲーテがノストラダムスの名を借りて表わさんとした賢者は、当時彼の思想に共鳴するところ多かったスウェーデンボルクである事は、エーリヒ・シュミットがこれを指摘し、マックス・モーリスがそのゲーテ研究に於て詳細に引証しているところである。(867頁)
ファウストがここに述べているものはいうまでもなくノストラダムスの神秘書中に描かれたマクロコスモスの表号である。(872頁)
彼が大勇猛心を振起して求めんと誓った真理も、自然のWirkungskrafft(注:因果関係の強さ)(後にWirkenskraft(注:功徳の強さ))とその根源とであり、やがてマギーの力(ノストラダムスの表号)によって『あはれな心を喜びを以て満たし、且つ不可思議なる衝動を以て満たすと共に』彼の心に啓示されたと信じたものは、実にこの『自然の力』であった。(874頁)
既に久しく彼の左右にあるノストラダムスの秘書に就いて以前にも幾度かこの霊の表号を見たものであろう。(885頁)
文中に何度も出てくる「秘書」というのは、大辞林 第三版によれば「秘蔵して、めったに人に見せない書物・文書」とあり、現在では「社長秘書」のような用例が多いが用語としては残っている。「ノストラダムス自筆のこの神秘に満ちた本は、」(高橋健二訳)という一部分について『「若きゲーテ」研究』のなかでは何度も言及されている。ただし、引用するたびに「神秘書」「秘書」「魔書」等といろいろと表現を変えている。しかしながら著者自身が具体的にノストラダムスの本の中身に関する注釈を行った形跡はない。ファウストの文脈からの推定と海外研究者の見解をもとに整理したと思われる。
どうしてファウストがノストラダムスの書を道連れにしようとしたか、そこから論点を広げようとしている。この書とは『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』を指していると見なせるが、ゲーテの研究者サイドは唐突にノストラダムスの名前が出てくるのに頭を悩ませたのであろう。ゲーテが実際に「ノストラダムスの予言集」に目を通していたかはわからない。『ウルファウスト』を順に読んでいくと、それはファウスト自身が自分の周囲に漂っていると感じる霊を実際に呼び寄せるための触媒となり得るものである。そしてそのツール自体がマクロコスモスに呼応しているということだろうか。
予言集の比較についてのコメント ― 2017/02/19 22:09
ノストラダムスの大事典 編集雑記のなかで、sumaruさんより1605年版予言集の偽年代説についていろいろとコメントをいただいた。前回は大事典の原典比較の凡例を旧版で行っていたので新版に合わせた形で少しリストの修正を行った。(図参照)それにしてもこれまで校異を行った500篇もの四行詩をすべて見直すという作業は想像を絶するものがある。その真摯な研究姿勢には敬服したい。1605年版ノストラダムス予言集についての扱いについては、別にけんかを吹っかけようとかという意図はまったくなく、自分がこれまでに集めた情報に基づいた見解を示したに過ぎない。
1620年代に出た版が全てシュヴィヨを踏襲しているというのは、話の持って行き方に少々疑問を感じました。
これについては少々舌足らずであったかもしれないが、1620年代に出たすべての版がシュヴィヨ版を直接参照したといっているわけではない。上のリストでも明らかなように誤植や省略が引き継がれているためマルニオル版がシュヴィヨ版を参照し、他の版がそれを粗悪にコピーしたというのは全く異論がない。1605年版を否定するというよりはその当時に存在した痕跡となる証拠を見いだせないことを示したものである。
具体的に言えば、1605年版および1628年ごろのデュ・リュオー版の百詩篇本編の原文は1568B(ギナール式。当「大事典」旧分類の1568C)およびシャヴィニーと強い一致を示しますが、ギナールも指摘するように、リゴー後継者、ピエール・リゴーらが踏襲したのは1568Aの方で、1568Bは後のリヨンの版に直接的影響を及ぼしていません。
この1568年版のテクストについて十分承知はしているが、正直いって1568年版予言集の系譜を後世の版本の影響に位置付けるのは適切ではない。なぜならその出版者自身はどれがどれか区別することなく、入手できたマテリアルをベースにテクストを組んでいるだけと推定されるからだ。それこそsumaruさんが示したことは十分に起こり得るものである。1568年版のテクストの変遷と1605年版のような決定的なマテリアルの変化を一緒くたにすべきではないように思う。
他方、「それを疑っている研究者として「パトリス・ギナールら」と素っ気ないが、もはや主流とはいえないのではないか」とのコメントもありますが、私は彼以外に踏み込んだ書誌研究をしている近年の研究者に心当たりが無く、真作説・偽作説以前に1605年版に言及している研究者を(もちろん新戦法さんは別として)見ていませんので、新戦法さんの多岐にわたる論点全体を論評するには材料が足りないです
ギナール以外に1605年版を否定した研究者は心当たりはないというが、繰り返しになって恐縮だが1975年ダニエル・リュゾが現物を見て書誌研究の発表を行っている。またギナールと双璧の研究者であるジャック・アルブロンもノストラダムスの予言集の1605年版が偽年代版としている。彼はマリオのサイトに発表している研究論文96 Les deux volets de prophéties- quatrains : almanachs et centuries.(予言集‐四行詩の二つの翼:暦書と百詩篇)のなかで、この版本の初出として1643-1644年を提言している。もっとも彼はシュヴィヨ版も偽年代版としてデュ・リュオーと同時期の1630年代を想定しているが1605年版がシュヴィヨ版の後の時代というのは変わりない。
ギナール以外で各版の原文の分析まで踏み込んで実証している論者はいないのではないか、であるならば、それをもってショマラやブナズラの所説を否定することは妥当ではないのではないか、とは感じています。
ショマラやブナズラの所説はセヴの書簡の日付と反マザランの2詩が含まれていないことで正確な日付の根拠を確認できたとしているが、1605年版の正年代を証明するものとしては弱い。セヴの書簡の日付は1605年だが、六行詩についてはアルブロンのいうようにモルガールが先行している可能性があり、出版年とは直接関係はない。1605年版にはない反マザランの2詩は、1649年に出版された3つの版で付け加えられたために版本の基本的なマテリアルが一致している可能性が考えられる。
他方で、1611年版が先行すると断言しようとするとそれはそれで不自然に感じられる点が出てくるのも事実です。
ここを示していただければ幸いである。いずれにしても断言するにはそれなりの検証が必要というのはまったくその通りで、今後も調査を進めていければと思う。
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