1557年版ノストラダムス予言集の周辺 ― 2026/09/29 21:26

ウージェヌ・バレート(1840)がパリの図書館で予言集の古い版本を調査した際1557年版予言集については触れていない。書誌学者のラ・クロワ・デュ・メーヌの『蔵書第1巻』(1584)に、同じ1557年に出版された『化粧品とジャム論』(プランタン)や『ガレノス釈義』(アントワーヌ・デュ・ローヌ)の言及がある(330-331頁)。しかし予言集に関してリヨンのシクスト・ドニーズが1556年に印刷したとだけで1557年版予言集(アントワーヌ・デュ・ローヌ)のことは記されていない。幻の1556年版は自分の蔵書のなかにあったのだろうか。残念ながらこれまで確認できた人はいない。今の目で見ると不思議に思えるが、そもそも予言集は暦のように際物扱いでちゃんとした書物として見られていなかった可能性も考えられる。このブログでも紹介したクリンコウストローム(1913)が調査したミュンヘン標本はエドガー・レオニ(1961)によれば1942年に失われた。(レオニ78頁)このソースはどこにあるのだろう。レオニはモスクワ標本のマイクロフィルムを入手したが本の印刷の直前であった。「この版は、明らかな誤りに満ちており、これまでに指摘されていない4つの信頼できる異同(341、532、691、694にある)しか含まれていない、極めて貧弱な版であることが判明した。」ちなみにギナールのCN27で、レオニがモスクワ標本の表紙の画像を掲載しているというのは誤解だ。レオニの画像はミュンヘン標本をコピーしたものである。

ダニエル・リュゾもモスクワ標本のフォトコピーを入手していたようだがスワン・オークションのリストに含まれていない。ミュンヘン標本について「この作品は戦時中に消失しており、ヒトラーの蔵書の中に含まれている可能性がある。」「その後第二次世界大戦で焼失したミュンヘン図書館から姿を消した1557年リヨンのアントワーヌ・ド・ローヌの標本が残っている。この本は、ヒトラーの住居であるベルヒテスガーデンを出発した本の箱の中に残っている可能性がある。私たちが持っているコピーは、現在モスクワの図書館にあるもう1つのコピーだ。」(リュゾ1982、49、244頁)ナチスドイツの当事者であるはずのアレクサンデル・ツェントュリオはこの件について何も語っていない。ロシアのザヴァリシン(1974)はこう記している。「同版の2冊目として知られていたものはミュンヘンにあったが、第二次世界大戦中に失われた。この消失は偶然ではないだろう。占星術師を側近に置き、占星術を信じる者たちに囲まれていたヒトラーの時代、ノストラダムスはナチスに憎悪と恐怖が入り混じった複雑な感情を抱かせていたからだ。第二次世界大戦中、ドイツおよびナチス占領下諸国では、『サンチュリ』の閲読や頒布は罰せられ、場合によっては懲役刑に処されることもあった。」ロベール・ベナズラ(1993)の「1983年11月5日付の手紙の中で、モスクワのレーニン図書館の館長は、1557年版の1冊が存在することを我々に知らせてきた。しかし、それ以上の情報を得ることはできなかった。当時、我々は、この1冊こそがドイツから失われたものなのではないかとさえ疑っていた!」というのはリュゾの推測を拠り所としたのだろう。

ベナズラは「1983年6月、ブダペスト(ハンガリー)の国立セーチェーニ図書館で、もう1冊の同書の所在を確認することができた。請求記号はAnt. 8192。同館の館長の好意により、マイクロフィルムの作成が可能となり、本版はこれを基に作成された。」(予言集1557、1993、12頁)1557年版の復刻本が出版されたのちにユトレヒトで642 篇が含まれる印刷の品質もはるかに高い標本が発見され、ミシェル・ショマラが「リヨン市公式市報/1997年1月12日」に表紙の画像を掲載した。この標本により、ミュンヘン/モスクワ/ブダペスト標本は海賊版の可能性が高いと見なされれるようになった。ショマラも1993年に海賊版に基づいた1557年版予言集の復刻本を出版したのは「しまった、早まった」と思ったに違いない。1557年版の正本と見られるユトレヒト標本は末尾に「1557年9月6日刷了」、世界で一冊しか確認されていない標本である。これに対して閲覧可能なブダペスト標本は誤植も多く印刷品質の低さが目立ち、正本より小さいサイズ。紙に収まり切れない詩篇を短縮したり省略したとしか思えない。(合計639篇)末尾は年代表記がなく「11月3日刷了」(画像参照)。こんな本をアントワーヌ・デュ・ローヌが印刷するとは到底思えない。博士論文で紹介しているモリスやユションの推測は論外と言わざるを得ない。ユトレヒト標本ではChésとあるのがブダペスト標本ではChez、当時の他のローヌの印刷物からも明らかに正字法が異なる時代を思わせる。(画像参照)ギナールはやや遅れてパリで製作された偽作と見ている。CN27そしてそれが1627年に再版されたのだと。

予言集の末尾

予言集表紙

クリンコウストロームの論文では、『古書に関する報告Nachrichten von alten Büchern』(1731、321頁)を引用し、ミュンヘン宮廷・国立図書館(現、バイエルン州立図書館)のアントワーヌ・デュ・ローヌ版について紹介している(367頁)。この版が1627年11月3日にリヨンで出版されたとある。(画像参照)著者はゲオルク・ヤコブ・シュヴィンデル(テオフィルス・シンケルス)は18世紀ドイツの書誌学者・ルター派聖職者。これが不正確な情報とは思えない。示した表紙のレイアウトは多少異なるが書誌情報や引用された四行詩の頁数からミュンヘン/モスクワ/ブダペスト標本と同一と見られる。17世紀の印刷物ならば3冊の標本がフランス国外で保管されていたとして不思議はない。思い切って、これら海賊版は16世紀に印刷されたのではなく17世紀に印刷されたものという仮説を提示してみたい。1605年版もそうだが粗雑な海賊版にありがちな傾向として、表記された出版地や出版年などは単なる図柄扱いでしかない場合が多い。ギナールは、この版が当時オリジナルにない捏造された四行詩(VII 43-44)を追加したことへの反撥として印刷されたと見る。海賊版が出版されるには何らかの背景があるはずだ。博士論文346頁によれば、ピエール•マルニオルとエチエンヌ•タンチョンの版がそれに該当するようだが、理由として少し弱いことは否めない。ギヨーム・トナズによると、正本のユトレヒト標本と比べて、植字工はスペースに問題があったようで、単語や改行が意図的に短くされ、本文に重大な変更が加えられている。すでに巻末の序文で、いくつかの字句が欠落し、大文字で書かれた字句もすべて変更されている。海賊版の印刷業者の手元に正本はあったのだろうか。序文と七巻までのサンチュリという本の枠組みは維持されているため正本はあったのではないかと推測する。III.30のように正本をトレースしている個所もある一方、パリで印刷された予言集を参照したとも想定される。ギナールの作成した予言集の系譜では 57B→61Pa→88Pa→89Paとなっているからだ。CN120
シュヴィンデル



1555年版ノストラダムス予言集 ジャム所蔵本とリゴー所蔵本 ― 2026/09/27 20:13

博士論文110頁では、1555年版予言集のジャム神父の所蔵本とジュール・ティエボーの所蔵本が別の伝本であることを否定している。ティエボー所蔵本のフォトコピーを所持していたダニエル・リュゾは著書244頁のなかでこう述べている。「初版の一冊がパリのJ・ティエボー未亡人の所有となっている。同じ版のもう一冊の存在が知られている。前世紀、Le Propagateur de la Foiの編集者で、Henri Dujardinのペンネームでノストラダムスの注釈を行ったAbbé Jamesが同じ版を所有していたが、我々はそれを見つけることができなかった。」リュゾが同じ版と判断したのはタイトルや版型から判断したものでバレートテキストとティエボーテキストを詳細に比較したようには思えない。ジャム所蔵本はバレートによる転記されたテキストしか確認のしようがない。ジャム所蔵本は画像データが残っていないが、1840年ウージェヌ・バレートは特認の下部が破損していると重要な証言をしている。

リヨンにて、我らユグ・デュ・ピュイ、ラ・モット領主、国王顧問、リヨン管区特別副官が作成した。1555年4月30日。
....llation faicte.
...et. (画像参照)
この部分が破れている。(ウージェヌ・バレート『ノストラダムス』254頁)

特認の破損部分

博士論文111-112頁でも指摘されているが、バレートの転記のもととなったジャム所蔵本のテキストはほぼアルビ標本と同一である。パトリス・ギナールもCN120でそう示しているし、私自身も同じ見解である。もう一つの標本はアベ・エクトル・リゴーを引き継いだエミール・ヌーリー(1870-1934)、別名ピエール・サンティヴェの後継としてパリの書店員ジュール・ティエボーが所蔵することになる。リゴーはこの標本を1889年10月15日に購入し、1931年6月17日にオテル・ドルーオHôtel Drouotで売却された。そのオークションカタログに画像が載っているが、バレートがいうような特認の下部に破損などない。ティエボー所蔵本はダニエル・リュゾやミシェル・ショマラらがフォトコピーして一部画像を公開している。ギナールはスワンオークションに出品されたリュゾのフォトコピーがウィーン標本と同一であることを確認したという。画像確認できる部分ではアルビ標本では序文冒頭の「VIE ET FELICITE」がウィーン標本やリュゾコピーで「VIE ET FELICITF」であることでも裏付けられる。(画像参照)予言集の末尾の花模様の版画の位置関係でリゴー所蔵本とウィーン標本が同一と考えられる。(画像参照)ミシェル・スコニャミーロによると、ティエボー所蔵本はその後、Thomas-Scheler書店のコレクションに加わり、2010年9月にパリのグラン・パレで開催された第27回古書ビエンナーレで展示された。いまどなたかの手元にあるかは不明である。

予言集序文の冒頭

予言集の末尾の版画

ここまでをざっと整理すると、
アルビ標本:ジャム所蔵本=バレートテキスト
ウィーン標本:リゴー所蔵本=ティエボー所蔵本=リュゾフォトコピー(ショマラコピー)=トマ・シュレル古書

特認は2年なのでウィーン標本以降もボノムで予言集が印刷されたことはありうるだろう。可能性を完全に否定するものではないが、現在確認できるマテリアルからは中間的な版が存在するとはいえない、というのが現時点での認識である。

黒沼健と「3797年」 ― 2026/09/26 09:52

博士論文232頁にはちょっと気になる文章がある。

これらの記事であれ、黒沼の解釈であれ、 予言の最後の年である「3797年」を文字通り西暦と解釈していたこともあり、1999年に人類が滅亡すると脅すようなものではなかった。

また同書233頁にはこうある。

(前略)ノストラダムスが西暦3797年に至る世界を予言していたという立場だった黒沼や南山の紹介に比べて、1999年の人類滅亡が不可避であるかのような、遙かに極端な受容がされることになった(前章参照)。 

いずれも黒沼健が3797年に言及したかのように受け取れる。参考文献には、 黒沼健『謎と怪奇物語』、新潮社、1957年。とあるので参照してみたがそんな記述はどこにも見当たらない。それどころか黒沼の書いたタイトルは「七十世紀の大予言」とあるのだ。そして51頁には「・・・彼の予言は実に紀元7000年の未来まで渉っていたからである。」61頁には「それに次いでノストラデムスは自己の運命を予言して、「紀元七千年に至る真実なる大予言」に最後のピリオッドを打っている。」これでどうして黒沼が3797年に言及したというのか理解に苦しむ。このスタンスは『未来をのぞく話』(1962)でも変わりなく、『古代大陸物語』(1963)ではもう少し具体的な内容に踏み込んで「”大きな数の年”—紀元7000年である。そして、最後の審判の日がやってくる。ノストラダムスは、それを紀元7000年と予見したのである。」と書いている。さらに同書196頁のあとがきでも「ノストラダムスは、それを予言しているのです。紀元七千年—まだまだ六千年以上先のことです」とA氏に応えている。

怪奇の窓➁(1966)に発表した「恐怖の一九九九年」というエッセイでも黒沼の立場は同じである。ちなみにエッセイの中で黒沼は1999年の詩を次のように紹介している。「一九九九年第七の月 恐ろしい王が空から舞い降りるだろう このため各地に一揆が起こり大混乱に陥る そして最後の勝利は正しいものが獲る」一揆が起こるという訳はヘンリー・C・ロバーツの奇妙な英訳「ジャックリー」を意識したものか。さらに1961年に刊行されたスチュワート・ロッブの解説書にある宇宙人の来襲説についても触れている。でも結局は「ノストラダムスの予言詩は、地球人の運命は”最後の審判の日”に決定するといっている。しかも、これは紀元七千年のことで、いまからおよそ五千年先である。」とそのスタンスはまったく変わっていない。ちなみにこのエッセイは『空飛ぶ円盤の謎と怪奇』(1974)に再録され、その本のあとがきにこう記している。「・・・ノストラダムス自身あの予言詩には”紀元七千年にいたる真実なる大予言”という副題をつけていて、人類の運命が決せられるのは紀元七千年といっているのである。」五島勉『ノストラダムスの大予言』の1999年人類滅亡という新説を一蹴している。

博士論文でなぜ黒沼が語ってもいない3797年を持ち出したのかはよくわからない。黒沼を権威付けに利用しようとした五島勉の言葉がなんとなく脳裏に蘇ってくる。「詩が100篇ずつの『サンチュリ』が集まっているので『諸世紀』って、黒沼さん以来、われわれ日本の研究者が苦心してつけた題なんですけどね。」(『1999年対談集』74頁)もちろん黒沼はそんなことは一言も語っていない。

空飛ぶ円盤の謎と怪奇

1555年版ノストラダムス予言集 アルビ標本とウィーン標本 ― 2026/09/25 17:26

1555年版ノストラダムス予言集には現在3点の標本の現存が知られている。公共図書館で公開されているのはアルビ標本とウィーン標本。ウィーン標本がアルビ標本の誤植を修正した訂正再版であることは研究者の間でまったく異論がない。ただし、そこにノストラダムスの意思が反映されているというのを証明するのは難しい。そもそも当時の印刷業界では著者自身が校正するという慣習がなかった。博士論文のなかで疑問なのが、II-25のgarde (歩哨)とgarce (若い女)の違いが訂正されたものと断じているところだ。ギヨーム・トナズによるウィーン標本と、1557年ユトレヒト標本および1568年ドレスデン標本(Nr.97)のテキスト比較リストを見てもgardeになっており、植字工による誤植の可能性と見るのが自然であろう。博士論文112頁で改訂版が1557年版で先祖返りしたという論旨をラブレーやフロベールから引き出しているが、それをノストラダムスに適用するのはいささか過ぎている。パトリス・ギナールがいうように、ウィーン標本はアルビ標本の印刷からそんなに日を置かずに組版し直されて印刷されたと見るのが妥当である。ギヨーム・トナズの解説のように、いくつかの単語がスペースなしで併記されたり、スペルミスが修正されたりしているが、本文に重要な修正は見当たらない。つまりこれらの急ごしらえのささいな修正は植字工の判断で行ったとしか思えない。

博士論文110頁では、19世紀のルイ・ジモンを引用して「前章(89頁)で見た暦書を巡る訴訟のように、自著の正確な印刷に拘っていたことが分かる」というが本当だろうか。もともとの話は、未刊行書簡IIでジャン・ブロトーのいうような、1554年に送られた二本立ての暦書の原稿があまりにも冗長なので短く編集したいといったことへの反撥ではないか。当時ノストラダムスの予言ビジネスは二本立て、三本立てで刊行するほど、かなりの産業になりつつあった。植字の細かい誤植に拘っていたとまでは読み切れない。ブランダムールの「第2巻まで刷本についてノストラダムスが取り急ぎ確認できた範囲のみを反映させた結果」を引用しているが、ウィーン標本にも誤りがある。(ちなみに博士論文の注釈13のXXIXXIIはXXI-XXIIの誤記)そもそも中途半端に第2巻までという論が現実味に乏しい。複数の植字工の作業によるバラツキの可能性が高いと見る。植字工だってできるだけ正確な校正を心がけているが人間のやることには当然ミスはつきもの。ちなみに当時は印刷が終わったら原稿を処分するのが一般的だった。誤りで一番顕著なのがサンチュリ第3巻のタイトルで、装飾的な木版画が頭から反転しており、NOSTRADAMUSの「R」の文字が欠けている。(画像参照)仮にノストラダムス本人が校正を厳密に行っていたとすればこんな目立ったミスは見逃すことはないだろう。よって「1555Aよりも1555Vの方がノストラダムスの意志を反映しているという推論」は積極的に支持できるものではない。

ウィーン標本の誤記


353篇の謎 ― 2026/09/21 22:42

sumaruさんの博士論文「ノストラダムス『予言集』の成立過程と史的展開」の109頁には「初版に収録された詩篇が353篇という中途半端な数であることについて、有力な仮説はない。」とある。ノストラダムスの予言集の1555年初版には100篇ずつ3巻の詩百篇と4巻は53篇が収録されている。そしてご丁寧にFIN(了)と書き添えてある。レイアウトからしてもう一、二篇追加することもできたはずである。詩篇の数を計353篇にしたのは著者の意図的なものがあったのは間違いない。これについては定説があるわけではないが、ロシアのペンゼンスキーは通常のユダヤ暦の1年に相当する象徴的な数字としている。ユダヤ暦の太陰暦の1年の長さは353日から360日まであり、ノストラダムスはその最小値を採用したと説明している。(『ノストラダムスの神話』141頁)そしてユダヤ暦の世界の創造紀元を前3761年を基準とした353年として惑星周期を展開したとみる。この場合月の時代は1534年から、太陽の時代は1887年、土星の時代は2240年からとなる。このようにノストラダムスがリシャール・ルーサの説明するトリテミウス周期354年4カ月をアレンジしたものと捉えている。

予言集初版は序文からもわかるように生まれたばかりの息子のセザールに宛てて書かれたものである。となればセザールに関係する数字を設定したと見るのが自然ではないか。ここではペンゼンスキーのいうユダヤ暦をもう一歩進めて考えてみたい。ユダヤ暦は太陰太陽暦である。月の満ち欠けの周期で12ヶ月を決めると,太陽暦の1年より少なくなるので,19年で7回の閏月が追加される。閏年は19年周期の3,6,8,11,14,17,19年目。セザールが生まれたのは1553年12月18日。このときのユダヤ暦の年はAM(アンノ・ムンディ)5314、ユリウス暦では1553年9月9日〜1554年8月29日に該当する。年の種類は平年・353日(欠損年)となる。ユダヤ暦の平年の種類は3つで353日(欠損年)、354日(通常年)、355日(完全年)がある。ちなみに予言集初版の1555年を含む年はAM 5315(384日の閏年)となる。ユダヤ暦の閏年の種類は383日:欠損年、384日:通常年、385日:完全年がある。こうしてみると、セザールが誕生した年のユダヤ暦の正確な日数353がノストラダムスが意図した詩篇の数と一致する。

ノストラダムスは実際にユダヤ暦を意識していたのだろうか。ノストラダムスがベニヤミン族の末裔を自称していたことはスカリジェールの書いた詩篇から窺える。「何故ノストラダムスは預言者を自称するのか。彼日く、ベニャミン族の末裔だからだと。」(博士論文23頁)ダニエール・イアンク=アグーの『ノストラダムスの出自』78-79頁にはこうある。

J.P.ド・エイツェ による、実にふさわしい聖書の引用を伴うイッサカル族の説と、J.-C.スカリザーが意地悪げに提唱したベニヤミン族の説との間では、我々は後者に傾く。というのも、セザール・ド・ノートルダムがそれを採用したからだ……70歳に近づく頃、彼はもはや自身の出自を隠さなくなっていた。1622年に出版に向けて準備されたが、結局原稿のままとなった彼の重要な韻文作品(17,000行からなる17巻)『ヒッピアード、あるいはゴドフロワと騎士たち』の冒頭部分で、詩人は9つの四行詩からなる擬人化を挿入している。その7番目は、次のように書かれている:
「今や、老いの重荷が肩や足、そして目にものしかかっている。愛する息子よ、私としては、ベニヤミンの子孫が愛されることを願っている」。

息子のセザールも、それが事実かどうかは別にして父親からベニヤミン族の末裔というのを聞かされていたのだろう。親子ともども世間へはユダヤという色をできるだけ消していたが内々では先祖のユダヤを意識していたといえる。ノストラダムス本人もその話を先祖から聞いていた可能性が高い。スカリジェールと親密だった時についその話をしてしまい、それを覚えていて非難の材料に用いたと見るのが自然である。四行詩353篇というのは内輪だけにわかるユダヤとの関りを示したものではなかったか。あくまでもひとつの仮説として提示してみたい。