1605年版ノストラダムス予言集の真偽 ― 2026/10/06 22:34
1605年版ノストラダムス予言集、研究者の間では偽年代版でとっくに決着がついていると思っていたが、、博士論文ではいまだに正規版?の余地を残している。1605年版は出版者も出版地の記載もなく表紙には「M.DCV.」(1605)とあるだけ、直観的にいかにも偽版の香りが漂っている。アナトール・ル・ペルティエ(1867)のように、予言集に含まれれるマテリアル(サンチュリ補遺、六行詩集、前兆集)が一通りそろっているので事実上の原典と見る向きもあった。レオン・テシェネールの『シャンパーニュ図書館』(p. 70, n° 196)で、1605版が1628年頃のピエール・デュ・リュオー版と、活字の装飾(見出し帯や装飾文字)がほぼ同一であると指摘している。すなわち1605版はトロアで出版されたピエール・デュ・リュオー版をコピーしたに過ぎない。博士論文128頁では「1605snをl628dRよりも後に出された偽年代版と疑う論者もいるが、17世紀前半に刊行されていたことは疑いない。」と偽年代版について言及しているが意図的にそこには踏み込んでいない。そこは研究者としてのスタンスなので尊重すべきだろう。ただし、展開している論には疑問もある。博士論文129頁「1605snと1649Xaの一致の多さから、ルソやギナールはそれらを同じ業者が同じ時期に刊行したと見なした。だが、つぶさに校異を行えば、そのような見解は支持できない。第8巻98番、第9巻8番、第10巻98番などのlong tempsは、1605snではそう綴られているが、1649Xaではlong-tempsとなっている。それらの箇所をlong-tempsと綴るのは1627Di以降の各地の版にしか見られない(第8巻77番のbien tostをbien-tostと綴るなども同様)。」と注釈しているが本当だろうか。また博士論文同頁の「1649Xaは刊行者の記載がない「1568年版」だが、全く同じ副題の「1611年版」や1649年版(1649Xc)が存在し、・・・」とあるがリュゾによる表紙の転記では1611の副題は1605と同じである。
1605snと1649Xaの時期がずれているのは確実である。とはいえ文字通りに44年を経てというのは全く支持できない。1605snは1628dRをコピーしたものだから、long tempsの綴りも当然一致している。(画像参照)なお、挙げられた9-8にはlong tempsは含まれていない。9-82の誤りではないか。1-92では1649Xaにもハイフンはない。1627Diや1627Huを見ても8-98だけハイフンがあるがそれ以外の詩の単語にハイフンは見当たらない。そのためハイフンのあるなしは版を組んだ植字工の癖としか思えない。ギナールは CN120で、Troyes, "1605" [ca. 1638-1648] antidatées ⇒ Bareste 1840 としており、"Lyon" [Troyes], "1568" [ca. 1649-1653] antidatées とまったく同じ時期とは見ていないことも付け加えておく。 ダニエル・リュゾはコピーを含む手元の4種の版本について「1649年(カタログ番号64)、1611年(カタログ番号63)、1605年(カタログ番号62)、1568年(カタログ番号61)の4つの年号で一般に提示されているが、これらはすべて同一の版であり、活字上の変更はあるものの、書物愛好家を欺くことはできない。」(リュゾ、1975、305頁)と述べている。リュゾはこの4種が1649年頃同時期に刊行されたとしているが、1605より少し遅れて1568が刊行されたと見ている。このなかで本当の日付は1649年のみ。1605はヴァンサン・セーヴの書簡から、1611はピエール・シュヴィヨ版から、1568はブノワ・リゴー版から取られたものだ。4種についてリュゾはこう述べている。
1605版の印刷は、1568版と同じ活字、同じ紙、同じ判型で作成されている。1568版では、いくつかの数字や挿絵が変更され、誤りが訂正されて別の版のように見せかけており、サンチュリ第7巻にはマザランを批判する四行詩が2篇追加されている。しかし、f. 24 v.の「Famine」の代わりにII-96に「Eamine」と記されているような誤りは、両版ともに残っている。
1568版は1649版と同一であり、1611版も1605版と同一で、表題ページの変更があるに過ぎないため、これは1649年に仕組まれた単一の偽造である。異なる日付が用いられた単一の偽造であるというさらなる証拠が必要であれば、これらすべての版の63ページを見れば十分だ。そこには93という番号が記されている。(画像参照)その刷り物は一度だけ印刷されたものだ。
同一の版で異文のないものには、1605年と1611年の2つの日付が記されている。別の異文のない版には、1568年と1649年の日付が記されている。前者と後者との間には非常に重要な活字上の違いがあるが、判型、紙質、活字、そして何よりも常に繰り返される数多くの誤りが、これらが単一の版であることを裏付けている。この偽造は、マザランを標的としたノストラダムスの偽預言に信憑性を与えるために行われたものだ。その作りは極めて拙劣であり、本書全体を古く本物のように見せるために、あえてこのように構成されたのではないかとさえ考えられる。
1568版は1649版と同一であり、1611版も1605版と同一で、表題ページの変更があるに過ぎないため、これは1649年に仕組まれた単一の偽造である。異なる日付が用いられた単一の偽造であるというさらなる証拠が必要であれば、これらすべての版の63ページを見れば十分だ。そこには93という番号が記されている。(画像参照)その刷り物は一度だけ印刷されたものだ。
同一の版で異文のないものには、1605年と1611年の2つの日付が記されている。別の異文のない版には、1568年と1649年の日付が記されている。前者と後者との間には非常に重要な活字上の違いがあるが、判型、紙質、活字、そして何よりも常に繰り返される数多くの誤りが、これらが単一の版であることを裏付けている。この偽造は、マザランを標的としたノストラダムスの偽預言に信憑性を与えるために行われたものだ。その作りは極めて拙劣であり、本書全体を古く本物のように見せるために、あえてこのように構成されたのではないかとさえ考えられる。
トロワのピエール・デュ・リュオーは、シュヴィヨの編纂した六行詩集を引き継ぎ、シャヴィニーの『フランソワヤヌス第一の顔』で引用された四行詩や前兆集、パリのロフェ版に収録され、カトリーヌ・ド・メディシス宛てとされるいくつかの四行詩を予言集に追加した。リュオーは少なくとも1634年まで印刷事業を営んでいたと考えられる。1605版の陰謀者たちはリュオーが活動を終えた後でコピーした版本をトロワで印刷したのだろう。ただ自分で編纂したものではないためページ番号の誤植が多数見られ、引き継がれている。刊行された正確な年代は不明だが、ギナールの示した1638-1648頃というのも一定の説得力はあると思われる。当時の背景から推理すると、1642年にリシュリューが死去、1643年にルイ十三世も崩御、その後実権を握ったマザランを攻撃するために準備された版本と想定される。そうすると、1644年から1649年の間に4種の予言集が準備されたと見るのが妥当である。1605版と1611版を印刷した陰謀者は、表紙を1649と1568に入れ替えてマザランを標的とした偽詩を追加して順次刊行した。(画像参照)VII-42. -イノセントがペトロの座につく時、シチリアのニラザムは(大いなる栄誉に浴するだろう)が、その後、内戦の泥沼に沈むことになる。VII-43.-マルスのルテシア、公認された元老院議員たちよ。一夜にしてガリアは混乱に陥るだろう。偉大なるクレソスの星占いは、土星によってその権力が追放されると予言している。これを追加した影響か、ヘッダーのCenturie VIIがCenturie VIに置き換わっている。
偽年代の1605版は繰り返し印刷されたことで異本も存在する。表扉に「M.DCV.」(1605年)と印刷したことで相当な部数が売れたようだ。そして古くて権威のある予言集の版本として受容されるに至った。それは標本の所蔵先が多岐に広がっていることからも伺える。そうして17世紀に刊行された予言集の系譜に大きな影響を与えたのである。
1557年版ノストラダムス予言集の周辺 ― 2026/09/29 21:26
ウージェヌ・バレート(1840)がパリの図書館で予言集の古い版本を調査した際1557年版予言集については触れていない。書誌学者のラ・クロワ・デュ・メーヌの『蔵書第1巻』(1584)に、同じ1557年に出版された『化粧品とジャム論』(プランタン)や『ガレノス釈義』(アントワーヌ・デュ・ローヌ)の言及がある(330-331頁)。しかし予言集に関してリヨンのシクスト・ドニーズが1556年に印刷したとだけで1557年版予言集(アントワーヌ・デュ・ローヌ)のことは記されていない。幻の1556年版は自分の蔵書のなかにあったのだろうか。残念ながらこれまで確認できた人はいない。今の目で見ると不思議に思えるが、そもそも予言集は暦のように際物扱いでちゃんとした書物として見られていなかった可能性も考えられる。このブログでも紹介したクリンコウストローム(1913)が調査したミュンヘン標本はエドガー・レオニ(1961)によれば1942年に失われた。(レオニ78頁)このソースはどこにあるのだろう。レオニはモスクワ標本のマイクロフィルムを入手したが本の印刷の直前であった。「この版は、明らかな誤りに満ちており、これまでに指摘されていない4つの信頼できる異同(341、532、691、694にある)しか含まれていない、極めて貧弱な版であることが判明した。」ちなみにギナールのCN27で、レオニがモスクワ標本の表紙の画像を掲載しているというのは誤解だ。レオニの画像はミュンヘン標本をコピーしたものである。
ダニエル・リュゾもモスクワ標本のフォトコピーを入手していたようだがスワン・オークションのリストに含まれていない。ミュンヘン標本について「この作品は戦時中に消失しており、ヒトラーの蔵書の中に含まれている可能性がある。」「その後第二次世界大戦で焼失したミュンヘン図書館から姿を消した1557年リヨンのアントワーヌ・ド・ローヌの標本が残っている。この本は、ヒトラーの住居であるベルヒテスガーデンを出発した本の箱の中に残っている可能性がある。私たちが持っているコピーは、現在モスクワの図書館にあるもう1つのコピーだ。」(リュゾ1982、49、244頁)ナチスドイツの当事者であるはずのアレクサンデル・ツェントュリオはこの件について何も語っていない。ロシアのザヴァリシン(1974)はこう記している。「同版の2冊目として知られていたものはミュンヘンにあったが、第二次世界大戦中に失われた。この消失は偶然ではないだろう。占星術師を側近に置き、占星術を信じる者たちに囲まれていたヒトラーの時代、ノストラダムスはナチスに憎悪と恐怖が入り混じった複雑な感情を抱かせていたからだ。第二次世界大戦中、ドイツおよびナチス占領下諸国では、『サンチュリ』の閲読や頒布は罰せられ、場合によっては懲役刑に処されることもあった。」ロベール・ベナズラ(1993)の「1983年11月5日付の手紙の中で、モスクワのレーニン図書館の館長は、1557年版の1冊が存在することを我々に知らせてきた。しかし、それ以上の情報を得ることはできなかった。当時、我々は、この1冊こそがドイツから失われたものなのではないかとさえ疑っていた!」というのはリュゾの推測を拠り所としたのだろう。
ベナズラは「1983年6月、ブダペスト(ハンガリー)の国立セーチェーニ図書館で、もう1冊の同書の所在を確認することができた。請求記号はAnt. 8192。同館の館長の好意により、マイクロフィルムの作成が可能となり、本版はこれを基に作成された。」(予言集1557、1993、12頁)1557年版の復刻本が出版されたのちにユトレヒトで642 篇が含まれる印刷の品質もはるかに高い標本が発見され、ミシェル・ショマラが「リヨン市公式市報/1997年1月12日」に表紙の画像を掲載した。この標本により、ミュンヘン/モスクワ/ブダペスト標本は海賊版の可能性が高いと見なされれるようになった。ショマラも1993年に海賊版に基づいた1557年版予言集の復刻本を出版したのは「しまった、早まった」と思ったに違いない。1557年版の正本と見られるユトレヒト標本は末尾に「1557年9月6日刷了」、世界で一冊しか確認されていない標本である。これに対して閲覧可能なブダペスト標本は誤植も多く印刷品質の低さが目立ち、正本より小さいサイズ。紙に収まり切れない詩篇を短縮したり省略したとしか思えない。(合計639篇)末尾は年代表記がなく「11月3日刷了」(画像参照)。こんな本をアントワーヌ・デュ・ローヌが印刷するとは到底思えない。博士論文で紹介しているモリスやユションの推測は論外と言わざるを得ない。ユトレヒト標本ではChésとあるのがブダペスト標本ではChez、当時の他のローヌの印刷物からも明らかに正字法が異なる時代を思わせる。(画像参照)ギナールはやや遅れてパリで製作された偽作と見ている。CN27そしてそれが1627年に再版されたのだと。


クリンコウストロームの論文では、『古書に関する報告Nachrichten von alten Büchern』(1731、321頁)を引用し、ミュンヘン宮廷・国立図書館(現、バイエルン州立図書館)のアントワーヌ・デュ・ローヌ版について紹介している(367頁)。この版が1627年11月3日にリヨンで出版されたとある。(画像参照)著者はゲオルク・ヤコブ・シュヴィンデル(テオフィルス・シンケルス)は18世紀ドイツの書誌学者・ルター派聖職者。これが不正確な情報とは思えない。示した表紙のレイアウトは多少異なるが書誌情報や引用された四行詩の頁数からミュンヘン/モスクワ/ブダペスト標本と同一と見られる。17世紀の印刷物ならば3冊の標本がフランス国外で保管されていたとして不思議はない。思い切って、これら海賊版は16世紀に印刷されたのではなく17世紀に印刷されたものという仮説を提示してみたい。1605年版もそうだが粗雑な海賊版にありがちな傾向として、表記された出版地や出版年などは単なる図柄扱いでしかない場合が多い。ギナールは、この版が当時オリジナルにない捏造された四行詩(VII 43-44)を追加したことへの反撥として印刷されたと見る。海賊版が出版されるには何らかの背景があるはずだ。博士論文346頁によれば、ピエール•マルニオルとエチエンヌ•タンチョンの版がそれに該当するようだが、理由として少し弱いことは否めない。ギヨーム・トナズによると、正本のユトレヒト標本と比べて、植字工はスペースに問題があったようで、単語や改行が意図的に短くされ、本文に重大な変更が加えられている。すでに巻末の序文で、いくつかの字句が欠落し、大文字で書かれた字句もすべて変更されている。海賊版の印刷業者の手元に正本はあったのだろうか。序文と七巻までのサンチュリという本の枠組みは維持されているため正本はあったのではないかと推測する。III.30のように正本をトレースしている個所もある一方、パリで印刷された予言集を参照したとも想定される。ギナールの作成した予言集の系譜では 57B→61Pa→88Pa→89Paとなっているからだ。CN120

1555年版ノストラダムス予言集 ジャム所蔵本とリゴー所蔵本 ― 2026/09/27 20:13
博士論文110頁では、1555年版予言集のジャム神父の所蔵本とジュール・ティエボーの所蔵本が別の伝本であることを否定している。ティエボー所蔵本のフォトコピーを所持していたダニエル・リュゾは著書244頁のなかでこう述べている。「初版の一冊がパリのJ・ティエボー未亡人の所有となっている。同じ版のもう一冊の存在が知られている。前世紀、Le Propagateur de la Foiの編集者で、Henri Dujardinのペンネームでノストラダムスの注釈を行ったAbbé Jamesが同じ版を所有していたが、我々はそれを見つけることができなかった。」リュゾが同じ版と判断したのはタイトルや版型から判断したものでバレートテキストとティエボーテキストを詳細に比較したようには思えない。ジャム所蔵本はバレートによる転記されたテキストしか確認のしようがない。ジャム所蔵本は画像データが残っていないが、1840年ウージェヌ・バレートは特認の下部が破損していると重要な証言をしている。
リヨンにて、我らユグ・デュ・ピュイ、ラ・モット領主、国王顧問、リヨン管区特別副官が作成した。1555年4月30日。
....llation faicte.
...et. (画像参照)
この部分が破れている。(ウージェヌ・バレート『ノストラダムス』254頁)
博士論文111-112頁でも指摘されているが、バレートの転記のもととなったジャム所蔵本のテキストはほぼアルビ標本と同一である。パトリス・ギナールもCN120でそう示しているし、私自身も同じ見解である。もう一つの標本はアベ・エクトル・リゴーを引き継いだエミール・ヌーリー(1870-1934)、別名ピエール・サンティヴェの後継としてパリの書店員ジュール・ティエボーが所蔵することになる。リゴーはこの標本を1889年10月15日に購入し、1931年6月17日にオテル・ドルーオHôtel Drouotで売却された。そのオークションカタログに画像が載っているが、バレートがいうような特認の下部に破損などない。ティエボー所蔵本はダニエル・リュゾやミシェル・ショマラらがフォトコピーして一部画像を公開している。ギナールはスワンオークションに出品されたリュゾのフォトコピーがウィーン標本と同一であることを確認したという。画像確認できる部分ではアルビ標本では序文冒頭の「VIE ET FELICITE」がウィーン標本やリュゾコピーで「VIE ET FELICITF」であることでも裏付けられる。(画像参照)予言集の末尾の花模様の版画の位置関係でリゴー所蔵本とウィーン標本が同一と考えられる。(画像参照)ミシェル・スコニャミーロによると、ティエボー所蔵本はその後、Thomas-Scheler書店のコレクションに加わり、2010年9月にパリのグラン・パレで開催された第27回古書ビエンナーレで展示された。いまどなたかの手元にあるかは不明である。
ここまでをざっと整理すると、
アルビ標本:ジャム所蔵本=バレートテキスト
ウィーン標本:リゴー所蔵本=ティエボー所蔵本=リュゾフォトコピー(ショマラコピー)=トマ・シュレル古書
特認は2年なのでウィーン標本以降もボノムで予言集が印刷されたことはありうるだろう。可能性を完全に否定するものではないが、現在確認できるマテリアルからは中間的な版が存在するとはいえない、というのが現時点での認識である。
黒沼健と「3797年」 ― 2026/09/26 09:52
博士論文232頁にはちょっと気になる文章がある。
これらの記事であれ、黒沼の解釈であれ、 予言の最後の年である「3797年」を文字通り西暦と解釈していたこともあり、1999年に人類が滅亡すると脅すようなものではなかった。
また同書233頁にはこうある。
(前略)ノストラダムスが西暦3797年に至る世界を予言していたという立場だった黒沼や南山の紹介に比べて、1999年の人類滅亡が不可避であるかのような、遙かに極端な受容がされることになった(前章参照)。
いずれも黒沼健が3797年に言及したかのように受け取れる。参考文献には、 黒沼健『謎と怪奇物語』、新潮社、1957年。とあるので参照してみたがそんな記述はどこにも見当たらない。それどころか黒沼の書いたタイトルは「七十世紀の大予言」とあるのだ。そして51頁には「・・・彼の予言は実に紀元7000年の未来まで渉っていたからである。」61頁には「それに次いでノストラデムスは自己の運命を予言して、「紀元七千年に至る真実なる大予言」に最後のピリオッドを打っている。」これでどうして黒沼が3797年に言及したというのか理解に苦しむ。このスタンスは『未来をのぞく話』(1962)でも変わりなく、『古代大陸物語』(1963)ではもう少し具体的な内容に踏み込んで「”大きな数の年”—紀元7000年である。そして、最後の審判の日がやってくる。ノストラダムスは、それを紀元7000年と予見したのである。」と書いている。さらに同書196頁のあとがきでも「ノストラダムスは、それを予言しているのです。紀元七千年—まだまだ六千年以上先のことです」とA氏に応えている。
怪奇の窓➁(1966)に発表した「恐怖の一九九九年」というエッセイでも黒沼の立場は同じである。ちなみにエッセイの中で黒沼は1999年の詩を次のように紹介している。「一九九九年第七の月 恐ろしい王が空から舞い降りるだろう このため各地に一揆が起こり大混乱に陥る そして最後の勝利は正しいものが獲る」一揆が起こるという訳はヘンリー・C・ロバーツの奇妙な英訳「ジャックリー」を意識したものか。さらに1961年に刊行されたスチュワート・ロッブの解説書にある宇宙人の来襲説についても触れている。でも結局は「ノストラダムスの予言詩は、地球人の運命は”最後の審判の日”に決定するといっている。しかも、これは紀元七千年のことで、いまからおよそ五千年先である。」とそのスタンスはまったく変わっていない。ちなみにこのエッセイは『空飛ぶ円盤の謎と怪奇』(1974)に再録され、その本のあとがきにこう記している。「・・・ノストラダムス自身あの予言詩には”紀元七千年にいたる真実なる大予言”という副題をつけていて、人類の運命が決せられるのは紀元七千年といっているのである。」五島勉『ノストラダムスの大予言』の1999年人類滅亡という新説を一蹴している。
博士論文でなぜ黒沼が語ってもいない3797年を持ち出したのかはよくわからない。黒沼を権威付けに利用しようとした五島勉の言葉がなんとなく脳裏に蘇ってくる。「詩が100篇ずつの『サンチュリ』が集まっているので『諸世紀』って、黒沼さん以来、われわれ日本の研究者が苦心してつけた題なんですけどね。」(『1999年対談集』74頁)もちろん黒沼はそんなことは一言も語っていない。

1555年版ノストラダムス予言集 アルビ標本とウィーン標本 ― 2026/09/25 17:26
1555年版ノストラダムス予言集には現在3点の標本の現存が知られている。公共図書館で公開されているのはアルビ標本とウィーン標本。ウィーン標本がアルビ標本の誤植を修正した訂正再版であることは研究者の間でまったく異論がない。ただし、そこにノストラダムスの意思が反映されているというのを証明するのは難しい。そもそも当時の印刷業界では著者自身が校正するという慣習がなかった。博士論文のなかで疑問なのが、II-25のgarde (歩哨)とgarce (若い女)の違いが訂正されたものと断じているところだ。ギヨーム・トナズによるウィーン標本と、1557年ユトレヒト標本および1568年ドレスデン標本(Nr.97)のテキスト比較リストを見てもgardeになっており、植字工による誤植の可能性と見るのが自然であろう。博士論文112頁で改訂版が1557年版で先祖返りしたという論旨をラブレーやフロベールから引き出しているが、それをノストラダムスに適用するのはいささか過ぎている。パトリス・ギナールがいうように、ウィーン標本はアルビ標本の印刷からそんなに日を置かずに組版し直されて印刷されたと見るのが妥当である。ギヨーム・トナズの解説のように、いくつかの単語がスペースなしで併記されたり、スペルミスが修正されたりしているが、本文に重要な修正は見当たらない。つまりこれらの急ごしらえのささいな修正は植字工の判断で行ったとしか思えない。
博士論文110頁では、19世紀のルイ・ジモンを引用して「前章(89頁)で見た暦書を巡る訴訟のように、自著の正確な印刷に拘っていたことが分かる」というが本当だろうか。もともとの話は、未刊行書簡IIでジャン・ブロトーのいうような、1554年に送られた二本立ての暦書の原稿があまりにも冗長なので短く編集したいといったことへの反撥ではないか。当時ノストラダムスの予言ビジネスは二本立て、三本立てで刊行するほど、かなりの産業になりつつあった。植字の細かい誤植に拘っていたとまでは読み切れない。ブランダムールの「第2巻まで刷本についてノストラダムスが取り急ぎ確認できた範囲のみを反映させた結果」を引用しているが、ウィーン標本にも誤りがある。(ちなみに博士論文の注釈13のXXIXXIIはXXI-XXIIの誤記)そもそも中途半端に第2巻までという論が現実味に乏しい。複数の植字工の作業によるバラツキの可能性が高いと見る。植字工だってできるだけ正確な校正を心がけているが人間のやることには当然ミスはつきもの。ちなみに当時は印刷が終わったら原稿を処分するのが一般的だった。誤りで一番顕著なのがサンチュリ第3巻のタイトルで、装飾的な木版画が頭から反転しており、NOSTRADAMUSの「R」の文字が欠けている。(画像参照)仮にノストラダムス本人が校正を厳密に行っていたとすればこんな目立ったミスは見逃すことはないだろう。よって「1555Aよりも1555Vの方がノストラダムスの意志を反映しているという推論」は積極的に支持できるものではない。






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