1555年版ノストラダムス予言集 ジャム所蔵本とリゴー所蔵本 ― 2026/09/27 20:13

博士論文110頁では、1555年版予言集のジャム神父の所蔵本とジュール・ティエボーの所蔵本が別の伝本であることを否定している。ティエボー所蔵本のフォトコピーを所持していたダニエル・リュゾは著書244頁のなかでこう述べている。「初版の一冊がパリのJ・ティエボー未亡人の所有となっている。同じ版のもう一冊の存在が知られている。前世紀、Le Propagateur de la Foiの編集者で、Henri Dujardinのペンネームでノストラダムスの注釈を行ったAbbé Jamesが同じ版を所有していたが、我々はそれを見つけることができなかった。」リュゾが同じ版と判断したのはタイトルや版型から判断したものでバレートテキストとティエボーテキストを詳細に比較したようには思えない。ジャム所蔵本はバレートによる転記されたテキストしか確認のしようがない。ジャム所蔵本は画像データが残っていないが、1840年ウージェヌ・バレートは特認の下部が破損していると重要な証言をしている。

リヨンにて、我らユグ・デュ・ピュイ、ラ・モット領主、国王顧問、リヨン管区特別副官が作成した。1555年4月30日。
....llation faicte.
...et. (画像参照)
この部分が破れている。(ウージェヌ・バレート『ノストラダムス』254頁)

特認の破損部分

博士論文111-112頁でも指摘されているが、バレートの転記のもととなったジャム所蔵本のテキストはほぼアルビ標本と同一である。パトリス・ギナールもCN120でそう示しているし、私自身も同じ見解である。もう一つの標本はアベ・エクトル・リゴーを引き継いだエミール・ヌーリー(1870-1934)、別名ピエール・サンティヴェの後継としてパリの書店員ジュール・ティエボーが所蔵することになる。リゴーはこの標本を1889年10月15日に購入し、1931年6月17日にオテル・ドルーオHôtel Drouotで売却された。そのオークションカタログに画像が載っているが、バレートがいうような特認の下部に破損などない。ティエボー所蔵本はダニエル・リュゾやミシェル・ショマラらがフォトコピーして一部画像を公開している。ギナールはスワンオークションに出品されたリュゾのフォトコピーがウィーン標本と同一であることを確認したという。画像確認できる部分ではアルビ標本では序文冒頭の「VIE ET FELICITE」がウィーン標本やリュゾコピーで「VIE ET FELICITF」であることでも裏付けられる。(画像参照)予言集の末尾の花模様の版画の位置関係でリゴー所蔵本とウィーン標本が同一と考えられる。(画像参照)ミシェル・スコニャミーロによると、ティエボー所蔵本はその後、Thomas-Scheler書店のコレクションに加わり、2010年9月にパリのグラン・パレで開催された第27回古書ビエンナーレで展示された。いまどなたかの手元にあるかは不明である。

予言集序文の冒頭

予言集の末尾の版画

ここまでをざっと整理すると、
アルビ標本:ジャム所蔵本=バレートテキスト
ウィーン標本:リゴー所蔵本=ティエボー所蔵本=リュゾフォトコピー(ショマラコピー)=トマ・シュレル古書

特認は2年なのでウィーン標本以降もボノムで予言集が印刷されたことはありうるだろう。可能性を完全に否定するものではないが、現在確認できるマテリアルからは中間的な版が存在するとはいえない、というのが現時点での認識である。

黒沼健と「3797年」 ― 2026/09/26 09:52

博士論文232頁にはちょっと気になる文章がある。

これらの記事であれ、黒沼の解釈であれ、 予言の最後の年である「3797年」を文字通り西暦と解釈していたこともあり、1999年に人類が滅亡すると脅すようなものではなかった。

また同書233頁にはこうある。

(前略)ノストラダムスが西暦3797年に至る世界を予言していたという立場だった黒沼や南山の紹介に比べて、1999年の人類滅亡が不可避であるかのような、遙かに極端な受容がされることになった(前章参照)。 

いずれも黒沼健が3797年に言及したかのように受け取れる。参考文献には、 黒沼健『謎と怪奇物語』、新潮社、1957年。とあるので参照してみたがそんな記述はどこにも見当たらない。それどころか黒沼の書いたタイトルは「七十世紀の大予言」とあるのだ。そして51頁には「・・・彼の予言は実に紀元7000年の未来まで渉っていたからである。」61頁には「それに次いでノストラデムスは自己の運命を予言して、「紀元七千年に至る真実なる大予言」に最後のピリオッドを打っている。」これでどうして黒沼が3797年に言及したというのか理解に苦しむ。このスタンスは『未来をのぞく話』(1962)でも変わりなく、『古代大陸物語』(1963)ではもう少し具体的な内容に踏み込んで「”大きな数の年”—紀元7000年である。そして、最後の審判の日がやってくる。ノストラダムスは、それを紀元7000年と予見したのである。」と書いている。さらに同書196頁のあとがきでも「ノストラダムスは、それを予言しているのです。紀元七千年—まだまだ六千年以上先のことです」とA氏に応えている。

怪奇の窓➁(1966)に発表した「恐怖の一九九九年」というエッセイでも黒沼の立場は同じである。ちなみにエッセイの中で黒沼は1999年の詩を次のように紹介している。「一九九九年第七の月 恐ろしい王が空から舞い降りるだろう このため各地に一揆が起こり大混乱に陥る そして最後の勝利は正しいものが獲る」一揆が起こるという訳はヘンリー・C・ロバーツの奇妙な英訳「ジャックリー」を意識したものか。さらに1961年に刊行されたスチュワート・ロッブの解説書にある宇宙人の来襲説についても触れている。でも結局は「ノストラダムスの予言詩は、地球人の運命は”最後の審判の日”に決定するといっている。しかも、これは紀元七千年のことで、いまからおよそ五千年先である。」とそのスタンスはまったく変わっていない。ちなみにこのエッセイは『空飛ぶ円盤の謎と怪奇』(1974)に再録され、その本のあとがきにこう記している。「・・・ノストラダムス自身あの予言詩には”紀元七千年にいたる真実なる大予言”という副題をつけていて、人類の運命が決せられるのは紀元七千年といっているのである。」五島勉『ノストラダムスの大予言』の1999年人類滅亡という新説を一蹴している。

博士論文でなぜ黒沼が語ってもいない3797年を持ち出したのかはよくわからない。黒沼を権威付けに利用しようとした五島勉の言葉がなんとなく脳裏に蘇ってくる。「詩が100篇ずつの『サンチュリ』が集まっているので『諸世紀』って、黒沼さん以来、われわれ日本の研究者が苦心してつけた題なんですけどね。」(『1999年対談集』74頁)もちろん黒沼はそんなことは一言も語っていない。

空飛ぶ円盤の謎と怪奇

1555年版ノストラダムス予言集 アルビ標本とウィーン標本 ― 2026/09/25 17:26

1555年版ノストラダムス予言集には現在3点の標本の現存が知られている。公共図書館で公開されているのはアルビ標本とウィーン標本。ウィーン標本がアルビ標本の誤植を修正した訂正再版であることは研究者の間でまったく異論がない。ただし、そこにノストラダムスの意思が反映されているというのを証明するのは難しい。そもそも当時の印刷業界では著者自身が校正するという慣習がなかった。博士論文のなかで疑問なのが、II-25のgarde (歩哨)とgarce (若い女)の違いが訂正されたものと断じているところだ。ギヨーム・トナズによるウィーン標本と、1557年ユトレヒト標本および1568年ドレスデン標本(Nr.97)のテキスト比較リストを見てもgardeになっており、植字工による誤植の可能性と見るのが自然であろう。博士論文112頁で改訂版が1557年版で先祖返りしたという論旨をラブレーやフロベールから引き出しているが、それをノストラダムスに適用するのはいささか過ぎている。パトリス・ギナールがいうように、ウィーン標本はアルビ標本の印刷からそんなに日を置かずに組版し直されて印刷されたと見るのが妥当である。ギヨーム・トナズの解説のように、いくつかの単語がスペースなしで併記されたり、スペルミスが修正されたりしているが、本文に重要な修正は見当たらない。つまりこれらの急ごしらえのささいな修正は植字工の判断で行ったとしか思えない。

博士論文110頁では、19世紀のルイ・ジモンを引用して「前章(89頁)で見た暦書を巡る訴訟のように、自著の正確な印刷に拘っていたことが分かる」というが本当だろうか。もともとの話は、未刊行書簡IIでジャン・ブロトーのいうような、1554年に送られた二本立ての暦書の原稿があまりにも冗長なので短く編集したいといったことへの反撥ではないか。当時ノストラダムスの予言ビジネスは二本立て、三本立てで刊行するほど、かなりの産業になりつつあった。植字の細かい誤植に拘っていたとまでは読み切れない。ブランダムールの「第2巻まで刷本についてノストラダムスが取り急ぎ確認できた範囲のみを反映させた結果」を引用しているが、ウィーン標本にも誤りがある。(ちなみに博士論文の注釈13のXXIXXIIはXXI-XXIIの誤記)そもそも中途半端に第2巻までという論が現実味に乏しい。複数の植字工の作業によるバラツキの可能性が高いと見る。植字工だってできるだけ正確な校正を心がけているが人間のやることには当然ミスはつきもの。ちなみに当時は印刷が終わったら原稿を処分するのが一般的だった。誤りで一番顕著なのがサンチュリ第3巻のタイトルで、装飾的な木版画が頭から反転しており、NOSTRADAMUSの「R」の文字が欠けている。(画像参照)仮にノストラダムス本人が校正を厳密に行っていたとすればこんな目立ったミスは見逃すことはないだろう。よって「1555Aよりも1555Vの方がノストラダムスの意志を反映しているという推論」は積極的に支持できるものではない。

ウィーン標本の誤記


353篇の謎 ― 2026/09/21 22:42

sumaruさんの博士論文「ノストラダムス『予言集』の成立過程と史的展開」の109頁には「初版に収録された詩篇が353篇という中途半端な数であることについて、有力な仮説はない。」とある。ノストラダムスの予言集の1555年初版には100篇ずつ3巻の詩百篇と4巻は53篇が収録されている。そしてご丁寧にFIN(了)と書き添えてある。レイアウトからしてもう一、二篇追加することもできたはずである。詩篇の数を計353篇にしたのは著者の意図的なものがあったのは間違いない。これについては定説があるわけではないが、ロシアのペンゼンスキーは通常のユダヤ暦の1年に相当する象徴的な数字としている。ユダヤ暦の太陰暦の1年の長さは353日から360日まであり、ノストラダムスはその最小値を採用したと説明している。(『ノストラダムスの神話』141頁)そしてユダヤ暦の世界の創造紀元を前3761年を基準とした353年として惑星周期を展開したとみる。この場合月の時代は1534年から、太陽の時代は1887年、土星の時代は2240年からとなる。このようにノストラダムスがリシャール・ルーサの説明するトリテミウス周期354年4カ月をアレンジしたものと捉えている。

予言集初版は序文からもわかるように生まれたばかりの息子のセザールに宛てて書かれたものである。となればセザールに関係する数字を設定したと見るのが自然ではないか。ここではペンゼンスキーのいうユダヤ暦をもう一歩進めて考えてみたい。ユダヤ暦は太陰太陽暦である。月の満ち欠けの周期で12ヶ月を決めると,太陽暦の1年より少なくなるので,19年で7回の閏月が追加される。閏年は19年周期の3,6,8,11,14,17,19年目。セザールが生まれたのは1553年12月18日。このときのユダヤ暦の年はAM(アンノ・ムンディ)5314、ユリウス暦では1553年9月9日〜1554年8月29日に該当する。年の種類は平年・353日(欠損年)となる。ユダヤ暦の平年の種類は3つで353日(欠損年)、354日(通常年)、355日(完全年)がある。ちなみに予言集初版の1555年を含む年はAM 5315(384日の閏年)となる。ユダヤ暦の閏年の種類は383日:欠損年、384日:通常年、385日:完全年がある。こうしてみると、セザールが誕生した年のユダヤ暦の正確な日数353がノストラダムスが意図した詩篇の数と一致する。

ノストラダムスは実際にユダヤ暦を意識していたのだろうか。ノストラダムスがベニヤミン族の末裔を自称していたことはスカリジェールの書いた詩篇から窺える。「何故ノストラダムスは預言者を自称するのか。彼日く、ベニャミン族の末裔だからだと。」(博士論文23頁)ダニエール・イアンク=アグーの『ノストラダムスの出自』78-79頁にはこうある。

J.P.ド・エイツェ による、実にふさわしい聖書の引用を伴うイッサカル族の説と、J.-C.スカリザーが意地悪げに提唱したベニヤミン族の説との間では、我々は後者に傾く。というのも、セザール・ド・ノートルダムがそれを採用したからだ……70歳に近づく頃、彼はもはや自身の出自を隠さなくなっていた。1622年に出版に向けて準備されたが、結局原稿のままとなった彼の重要な韻文作品(17,000行からなる17巻)『ヒッピアード、あるいはゴドフロワと騎士たち』の冒頭部分で、詩人は9つの四行詩からなる擬人化を挿入している。その7番目は、次のように書かれている:
「今や、老いの重荷が肩や足、そして目にものしかかっている。愛する息子よ、私としては、ベニヤミンの子孫が愛されることを願っている」。

息子のセザールも、それが事実かどうかは別にして父親からベニヤミン族の末裔というのを聞かされていたのだろう。親子ともども世間へはユダヤという色をできるだけ消していたが内々では先祖のユダヤを意識していたといえる。ノストラダムス本人もその話を先祖から聞いていた可能性が高い。スカリジェールと親密だった時についその話をしてしまい、それを覚えていて非難の材料に用いたと見るのが自然である。四行詩353篇というのは内輪だけにわかるユダヤとの関りを示したものではなかったか。あくまでもひとつの仮説として提示してみたい。

ノストラダムス『予言集』の成立過程と史的展開 ― 2026/09/15 16:22

久しぶりの更新となるがこれは書き残しておかねばなるまい。sumaruさんの博士論文「ノストラダムス『予言集』の成立過程と史的展開」が国立国会図書館のデジタルコレクションで読めるとあって、さっそく国会図書館に行って全ページをコピーしてきた。国会図書館へ行くのはほぼ2年ぶりなので中がどんな状況かと思いきや、椅子席の端末が減って、代りに立ち席の端末が増えているような印象。論文の全枚数が403頁ということで端末でファイルを呼び出し1回の上限の100枚ずつ印刷請求し、5回ですべてのページが入手できた。ちなみにデジタルデータの印刷は@16円なので全部で税込み7092円。

レジメは事前に確認していたがsumaruさんがこれまでに発表したレポートや論文がきちんと整理された重厚な仕上がりとなっている。7年間の研究成果がぎっしりと詰まっている記念碑的な作品だ。筆者は大のノストラダムスファンとして常々良質なノストラダムス論を読みたいと、これまで随分と海外文献を渉猟してきた。ずっとノストラダムスをウォッチャーしてきたのだが、五島勉著『ノストラダムスの大予言』から半世紀以上過ぎ、さらにブームの起きた1999年からも四半世紀以上過ぎている。そんな状況で日本人がノストラダムス研究をまとめた博士論文を、自分の目の黒いうちに読むことができるというのは本当にありがたい。論文61頁で本ブログの記事について脚注で触れているのは驚いた。さらに1枚1枚丁寧に読んでいくと最後のところの謝辞に自分の名前が出てきたのには思わず「えーえーえっー」(Uber EatsのCM風)と声が出てしまったほどだ。博士論文に関して特段資料協力したことはなかったが随分と持ち上げていただいたと感謝している。

枚数が403頁もありバラバラのままでは扱いにくいので、OCR付のスキャンし電子データ化した後で近所の製本所に持ち込み製本してもらった。(画像参照)ちなみに費用は5000円。上のウェブサイトの画像に比べると2倍の厚さに見える。オリジナルはおそらく両面コピーしたものを製本したのだろう。とにかくノストラダムス研究の博士論文で学位を取ったというのが本当に素晴らしい。いまはデジタル時代で世の中には多くの情報があふれている。そんななかでノストラダムスの予言集のデジタルデータを参照できるようにURLを記載しているのは今風の論文といえる。自分も知らなかった1561年版や1594/95年版のテキストは新研究の成果といえるだろう。研究論文というのは新たな仮説を提示してそれを検証するというのが必須である。その通りに新しい仮説をいろいろと提示しているのもうれしい。ただ、その中身は必ずしも賛同できないものもある。

製本版

さらに情報がアップデートされていないものも見受けられる。1605年版の偽年代の問題はなにかしらの結論を出しているのかと期待したが残念。これについては別途述べてみたい。1557年版のモスクワの所蔵本についてベナズラの「おそらく、ソ連の兵士によって(ミュンヘン図書館から)持ち出され、その後モスクワに渡った」を引用しているが、ルミャンツェフ図書館の印は、このユニークな本が革命前からロシアにあったことを示している。(アレクセイ・ペンゼンスキー『ノストラダムスの神話』43p)実際にRGBのWebサイトをみても「RGBのEKコレクション 1831年以前に作成された文書の目録」とこれを裏付けている。ザヴァリシンはモスクワとミュンヘンの標本をきちんと分けて論じている。(V.K.ザヴァリシン『ノストラダムス・ サンチュリ』66p)ボリス・パステルナークはゲーテの『ファウスト』を翻訳する過程で、レーニン図書館を訪れ、1557年版の『サンチュリ』という希少本を利用したという。(同書68p)ミュンヘン標本(クリンコウストロエムの論文にあるもの、画像参照)は左側にRのマークがついておりまったく別のものである。

ミュンヘン標本

末尾に置かれた予言集の書誌のまとめは従来の書誌研究を総括するもので、ノストラダムスの史的展開を概観する上でも有用なデータベースである。本論文は今後ノストラダムスを議論するうえでの基本的文献として位置づけられることだろう。本当におめでとうございます。